私たちは普段から、何をするときでも何かを消費している。ジャン・ボードリヤールは主著「消費社会の神話と構造」において、「消費」という言葉を再定義している。その定義とはすなわち「消費とは記号の交換」である、というものだ。そしてその記号とは「私はあなた達とは違う」という「差異」を表わす記号を差す。
古典的な消費の目的
古典的なマーケティングの枠組みによる「消費の目的」とは次の三つだ。
- 1:機能的便益の獲得
- 2:情緒的便益の獲得
- 3:自己実現的便益の獲得
マーケティング理論では、市場は黎明期から成熟していくに従い、あるいはその市場の経済的なステータスが進展するに従って、消費の目的は先述した1から順に2、3へと移っていくことになる。一例として、ノートパソコンや携帯電話における歴史を挙げる。
20年前の2000年代初頭、ノートパソコンも携帯電話も、追加機能といったスペックや如何に軽いかといった重量が、ユーザーにとっての選択要因であった。やがてデザインや素材感のような情緒的因子がより重要視されるようになり、今日ではそのブランドやシリーズが有している、パーソナリティやストーリーが最重要視されるようになった。
これが示すものは、ユーザーが機能的便益で満足するようであれば、市場はそこで頭打ちになってしまう、ということでもある。ボードリヤールは、機能的に満足のいくものがこれほどまでに溢れかえっているにもかかわらず、私たちの経済活動が中長期的に見て未だに拡大路線にあることについて、次のように指摘している。
充足は熱量やエネルギーとして、あるいは使用価値として計算すれば、たちまち飽和点に達してしまうにちがいないからだ。今われわれの目の前にあるのは明らかにその反対の現象ー消費の加速度的増加である。この現象は、欲求の充足に関する個人的論理を根本的に放棄して差異化の社会的論理に決定的重要性を与えないかぎり、説明できるものではない。
欲求は個人的なものではなく社会的なものである
つまりボードリヤールが言いたいことは、私たちのもつ「欲求」は、個人的あるいは内発的なものとしては説明できない、むしろ他者との関係性である「社会的」なものだ、ということだ。欲求が社会的なものだとすれば、マーケティングにおける市場創造と拡大において最重要なのは、「差異の総計の最大化」ということになる。
ボードリヤールの「差異的消費」というコンセプトはまた、消費というテーマを大きく超える射程距離を有している。例えば、私たちが「自己実現」を掲げるとき、実現されるべき自己像は自身の内発的な欲求や願望を基にして規定しうる、という前提に立っている。
しかし、本当にそうなのか。「自己実現像」がある特定の集団が排他的に有する特性によって記述されるのであれば、その自己像は内発的な規定というよりも、むしろ、特定集団とその他の集団との境界線を規定する要件、つまりは「差異」によって外発的に規定されることになる。ボードリヤールの指摘はこうだ。
消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。他人との違いを強調することは、同時に差異の全秩序を打ち立てることになるが、この秩序こそはそもそものはじめから社会全体のなせるわざであって、否応なく個人を超えてしまうのである。
差異的消費の全容
注意しなければならないのは、例えばお金持ちがお金持ちであることをわかりやすく他者に伝えるため「わかりやすい」ポルシェに乗ったり、「わかりやすい」広尾に住居を構えたりといったことも、もちろん差異的消費の一形態であるが、それが全てではない、ということだ。
プリウスに乗っていても、郊外の田舎に暮らしていても、それを選択した主体がそのような選択をしなかった他者と自分は異なるのだ、ということを示すための差異的消費である、ということだ。どのような選択を、どれだけ無意識的に、どれだけ無目的に行ったとしても、そこには自ずと「それを選んだ」「それを選ばなかった」という記号が生まれてしまう。
この窮屈な概念から逃れられる人はいない、私たちはそのような「記号の地獄」に生きている、というのがボードリヤールの指摘である。この指摘をただ指摘として受け止めるだけでは、いささか居心地が悪く、後味も悪い。知的果実を得るために、シンプルではあるが誰しもにストンとくる考察を加えておく。
ボードリヤールの指摘から紐解くと、商品やサービスになんらかの記号がなければ、あるいは記号があっても希薄だとしたら、それは市場では生き残りにくい、ということに繋がる。商品なりサービスが、どのような「差異」を規定するのか、意識的にならない限り、成功する商品やサービスの開発は難しいということだ。

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