ジル・ドゥルーズとガタリの共著「アンチ・オイディプス」にて用いられた用語である「パラノとスキゾ」を、浅田彰が著書「逃走論」の中で紹介したのがきっかけとなり、1984年の流行語大賞の銀賞となった。自身が生まれる以前の用語を取り上げたのは、この「パラノとスキゾ」という枠組みが、現在の日本においてこそ改めて含みのある概念であると感じたからだ。
パラノとスキゾ
パラノとはパラノイア=偏執型を差し、スキゾとはスキゾフレニア=分裂型を差す。本稿にてパラノとスキゾ、偏執と分裂が指すのはどちらもアイデンティティとなるのだが、それぞれが示す概念が、今日の日本あるいは世界における人の、もしくは人類史に誕生したすべての人の、生き方に通ずるものがあるように感じる。
パラノイア=偏執型
「いい大学を卒業して、大企業に勤めて、高層マンションに住んでいる」という自分のアイデンティティに固執し、このアイデンティティをさらに稠密に彫り込むことで芯を出す。これまでの自分に見合う、整合的な特質の獲得に邁進する。人生でしばしば発生する偶発的な機会や変化を受け入れるかは、過去のアイデンティティと整合的かどうかにかかっている。
スキゾフレニア=分裂型
自分の美意識や直観の赴くままに自由に運動する。その時点での判断、行動、発言と過去のアイデンティティや自己イメージとの整合性にはこだわらない。固定的なアイデンティティに縛られることはない。偶発的な変化や機会は、その時々の直観や嗅覚に従うことで受け入れられたり受け入れられなかったりする。
ツリーとリゾーム
ドゥルーズは別の著書「千のプラトー」にて、起点をもとにしてツリー状に枝葉を整合的に広げていくような論理構造を「ツリー」とし、その対比として起点をもたず、無秩序に拡散していく根っこの概念を「リゾーム」と名付けた。この「ツリーとリゾーム」に「パラノとスキゾ」を対応させると、「ツリー=パラノ」、「リゾーム=スキゾ」ということになる。
逃げる、ということ
また、ドゥルーズはもともと数学における微分の概念を応用して「差異」の研究をした哲学者で、この「パラノとスキゾ」という対比を数学的なニュアンスで表現すれば、「パラノ=積分」、「スキゾ=微分」ということになる。さて、では「パラノとスキゾ」という概念が、なぜいま重要なのか。浅田彰の著書「逃走論」からの抜粋にヒントを得たい。
さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、≪住む≫ってことだろう。一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子供の尻をたたいて、一家の発展をめざす。このゲームは途中でおりたら負けだ。≪やめられない、とまらない≫でもって、どうしてもパラノ型になっちゃうワケね。これはビョーキといえばビョーキなんだけど、近代文明というのはまさしくこうしたパラノ・ドライヴによってここまで成長してきたのだった。そしてまた、成長が続いている限りは、楽じゃないといってもそれなりに安定していられる、というワケ。ところが、事態が急変したりすると、パラノ型ってのは弱いんだなァ。ヘタをすると、砦にたてこもって奮戦したあげく玉砕、なんてことにもなりかねない。ここで≪住むヒト≫にかわって登場するのが≪逃げるヒト≫なのだ。コイツは何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、そのつどありあわせのもので用を足し、子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、これはまさしくスキゾ型、というワケね。
浅田彰「逃走論 スキゾ・キッズの冒険」
この指摘には二つのポイントがある。一つ目は「パラノ型は環境変化に弱い」ということ。二つ目は「逃げる」という点。「パラノ型」を「住む人」と定義した上で、「スキゾ型」を「逃げるヒト」と定義した。「住む人」に対置させるのであれば「移住するヒト」や「移動するヒト」という定義もあるにもかかわらず、だ。それぞれを掘り下げていく。
環境変化に弱いパラノイア
企業や事業の寿命がどんどん短くなっている状況を、個人のアイデンティティと紐づけて考えるとどうなるか。職業というのはアイデンティティ形成におけるもっとも重要な要素で、一つのアイデンティティに縛られるということは一つの職業に縛られる、ということになる。つまりは、固執するのは危険である、ということだ。
一貫性がある、ブレない、この道数十年、みたいなことを手放しで賞賛するクセが日本人にはあるが、しかしそんな価値観に縛られて、自分のアイデンティティをパラノ的に固執しようとすることは、自殺行為になりかねない。自分が置かれている状況は、社会や時代の流れにより絶えず変化し続ける。
とにもかくにも、ここから逃げる
改めて、「住むヒト」に対置させたのが「逃げるヒト」であるのは、感覚的に非常に鋭い。別に明確な行き先が決まっていなくとも、とにもかくにも「ここから逃げる」。このニュアンス、「必ずしも行き先がはっきりしているわけではないんだけど、ここにいるのはなんとなくヤバそうだからとにかく動こう」というマインドセットが、スキゾ型ということだ。
キャリアを築くにあたって、「自分が何をやりたいか、何が得意なのかを考えろ」という言葉は必ず耳にする。こんなことを考えるのに意味はあるのだろうか。やってみないとわからない、やってみて面白いか、得意かがわかった、というのは往々にしてあることだ。「何がしたいか」なんてモジモジと考えていたら、偶然やってきたチャンスすら逃げしてしまいかねない。
つまり、大切なのは行き先なんて決めていないままに、「なんだかヤバいんじゃないの」と思ったならさっさと逃げろ、ということだ。目を凝らし、耳をすまして、周りで何が起きているのかを見極める。「たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ」ということだ。
勇気があるからこそ逃げられる
周りが「まだ大丈夫」と言っていても、自身が「危ない!」と直観したならすぐに逃げる。重要なのは「危ないと感じるアンテナの感度」と「逃げる決断をするための勇気」だ。勘違いしている人が多いが、「逃げる」のは「勇気がない」からではなく、逆に「勇気がある」からこそ逃げられる。
自身が社会に出た当時、就職人気ランキング上位の花形産業であった職業は、今では将来の不確実性が高いと言われる業種になっている。今日の就職人気ランキング上位の花形産業の多くもまた、20年後には衰退産業に数えらえることになるかもしれない。誰もが羨むような企業に入社すれば、その会社に属する自分をアイデンティティの柱にするのは避けられない。
しかし、その会社が花形のままでいられる期間はどんどん短くなっている。自分のアイデンティティの拠り所が、もはや人が羨むような花形ではなくなったとき、それをさっさと捨て去って、自分というものを崩壊させずに分裂させておけるか。「パラノからスキゾ」への転換が求められるときが、すぐ目の前にやってきているかもしれない。
イノベーションの停滞
日本の社会では未だに、一箇所に踏みとどまって努力し続けるパラノ型を礼賛し、次から次へと飽きっぽく変異転遷していくスキゾ型を卑下する傾向が強い。シリコンバレーの職業観は典型的なスキゾ型で、日本のパラノ礼賛スキゾ卑下の職業観がイノベーションを停滞させる一つの要因になっている節がある。
こうした社会的な価値観が「スキゾ型」の戦略を採用しようというとき、大きな心理的ブレーキとして働く可能性がある。だからこそ、逃げるときには勇気が必要となる。世間的な風評を気にして沈没しかけている船の中でモジモジしていたら、それこそ人生を台無しにしかねない。
多くの人が「一度この船に乗った以上、最後まで頑張る」と息巻いているなか、「この船と心中するつもりはないのでお先に失礼」と逃げるとき、どれだけの勇気がいるか。パラノとスキゾで言えば、後者は前者より軽薄で軟弱な生き様に映るかもしれない。しかし、むしろ勇気と強度を持つ人こそが、スキゾ型の人生をしたたかに歩むことができるのではないか。

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