性差別は根深く血の中骨の中に溶け込んでいる「第二の性」-シモーヌ・ド・ボーヴォワール

現代で言うフェミニストの走りとして、社会的な圧力によって押し込められる、女性の可能性の解放を激烈に謳ったのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールという人だ。ボーヴォワールは事実上のサルトルの妻であったが、双方の愛人を共有するということまでしており、「普通の夫婦像」には収まることなく、お互いを同志のように感じていたのかもしれない。

女になるのだ

ボーヴォワールは主著「第二の性」の冒頭にて、こう述べている。「On ne nait pasfemme, on le devient(人は女に生まれるのではない、女になるのだ)」。この言葉は、アフォリズムとしても簡潔でわかりやすいこともあり、20世紀後半には様々な場所で人口に膾炙することになった。

つまり、「生物学的な女性」と「社会的な女性」とを整理した上で、生まれつきの女などいない、みな社会的な要請の結果として「女らしさ」を獲得させられるのだ、と指摘している。この「女性らしさを獲得せよという圧力」が、時代や社会においてどう変わるのか。世界中でもっとも「女は女らしくしていろ」という圧力が強く働く文化を有するのが日本だ。

この点を考察するにあたって、オランダの心理学者であるヘールト・ホフステードが提唱した「男性らしさ対女性らしさ」を取り上げる。改めて確認すれば、ホフステードはIBMからの依頼により、各国の文化的差異を六つの次元に整理し、その四つ目の項目として、「男性らしさ(女性らしさ)を求める傾向の強さ」を挙げている。

男性らしい社会と女性らしい社会

ホフステードは、この指標について次のように説明している。まず「男性らしい社会」についてイギリスを例に挙げ、社会生活を行う上で男女の性別役割がはっきりと分かれる傾向が強く、労働にも明確な区別が生まれ、自分の意見を積極的に主張するような仕事は男性に与えられる。男の子は、学校で良い成績を取り、競争に勝ち、出世することを求められる。

一方、「女性らしい社会」についてはフランスを例に挙げ、社会生活の上で男女の性別役割が重なり合っていて、論理や成果よりも良好な人間関係や妥協、日常生活の知恵、社会的功績が重視される。そして、この「男性らしい社会」のスコアで、日本は調査対象となった53ヵ国中、ダントツの1位であったとのことだ。

女性の社会進出を妨げるのは

女性進出が世界でもっとも進んでいると言われる北欧諸国はおしなべて低く、例えばスウェーデンは最下位の53位となっている。安倍政権は女性の活躍を政策目標に掲げていたが、日本を女性が働きやすい社会にするというのは、実は極めて挑戦的な目標である、ということを自覚しなければならない。

この挑戦的な目標をどのようにして攻略していくのか。今日の社会で実権を握っている男性たちが、自分たちが囚われている社会的性差に関する認識や感性の歪み、そうした「ジェンダーバイアス」について、どれくらい自覚的になれるのか。一番危ないのは「自分はそうしたバイアスからは自由だ」という自己欺瞞に陥ること、ではないだろうか。

ジェンダーバイアスへの無自覚

日本における性差別は、とても根深く、そこで社会を生活する人たちの眼には見えない形で、血の中、骨の中に溶け込んでいる。極論となるが、ジェンダーバイアスから自由でいる人は、今の日本には一人もいないのではないか。自身の経験則から見ても、社会情勢を垣間見ても、そうではないと言い切れる要素は微塵もないことに気付く。

なんらかの場面において、性差別について指摘を受け、バツが悪い思いをするようであればまだいい。痛いところをつかれた、と思えるのは、そう思えるだけの罪悪感をすでに持っていたということだ。しかし、指摘されてもなお、自分のどこにそのような性差別的な意図を感じたのか、と不思議でならない男性がほとんどではないだろうか。

まず求められるのは、日本が、極めて強いジェンダーバイアスに支配された国であり歴史があるということ、そしてそのバイアスに我々自身が極めて無自覚であるため、多くの人がそのようなバイアスから自由であると錯覚し、その残酷な無自覚さが、女性の社会進出を妨げる最大の障壁となっている、ということを心しておくことだ。

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