複数の会社に同時に勤める、短期間で会社を移る、会社に所属することなく個人で多様なプロジェクトに参画する。こうした働き方がクールとされ、政府も推奨し始めたことから世間でもポジティブに語られる昨今。このような働き方がスタンダードになった社会、いわば「ポスト働き方改革」が成立した後の社会における、懸念について考察する。
無連帯=アノミー
社会学者であるエミール・デュルケームが提唱した「アノミー」という概念は、多くの場面で無規範・無規則と訳されているが、それはむしろアノミーがもたらす結果であり、オリジナルの文脈を尊重した場合は「無連帯」と捉えるべきだ。デュルケームは主著「社会分業論」と「自殺論」において、アノミーについて言及している。
社会分業論では、分業が過度に進展する近代社会では、機能を統合する相互作用の営みが欠如し、共通の規範が育たないと指摘している。今日、先進国の多くで格差が問題になっているが、これはそのまま、職業間格差と言える。億単位の報酬すら珍しくない外資系金融の世界と、彼らが商品として扱う外食や建設産業とで、共通の規範が成立するとは考えにくい。
次に自殺論では、自殺を次の三つのタイプに分類し、「アノミー的自殺」が増加すると予言している。
- 利他的自殺(集団本位的自殺):集団の価値体系に絶対的な服従を強いられる社会、あるいは諸個人が価値体系・規範へ自発的かつ積極的に服従しようとする社会に見られる自殺
- 利己的自殺(自己本位的自殺):過度の孤独感や焦燥感などにより個人と集団との結びつきが弱まることによって起こる自殺の形態。個人主義の拡大に伴って増大してきたものとしている
- アノミー的自殺:集団・社会の規範が緩み、より多くの自由が獲得された結果、膨れ上がる自分の欲望を果てしなく追及し続け、実現できないことに幻滅し虚無感を抱くことで起きる自殺
かえって不安定な状況に陥る
テキストに起こすと恐ろしく感じるが、デュルケームが言っているのは、「社会の規制や規則が緩んでも、個人は必ずしも自由にはならず、かえって不安定な状況に陥る。規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとってよいことではない」ということだ。各個人は組織や家庭への連帯感を失い、孤独感に苛まれながら社会を漂流するようになる。
日本では戦後、天皇を中心とした国体という大きな物語を喪失するが、昭和30年代までは村落共同体が、その後は左翼と会社がアノミーの防波堤として機能した。疑似的な規範を形成し、個人間の紐帯を形成することで、田舎や都市部の各地において一定規模の集団社会の凝集性を維持していた。
ところが、社会主義国の相次ぐ破綻により、共産主義はイデオロギーとしてもはや大きな物語を支えられなくなり、多方、いい大学に入って会社に入り、一生懸命働けば一生困ることなく幸せに暮らせる、という物語も崩壊してしまった以上、会社にアノミー防止の役割を期待するのは不可能な時代となった。
事実、ここ10年間で頻繁に耳にするようになった無縁社会という言葉は、まさしくアノミー状態に社会が陥りつつあることを示唆している。また、90年代以降は自殺率が高い水準で推移しているが、こうした状態もまさに、デュルケームが指摘したとおりだ。カルト教団への若者の傾斜も90年代以降顕著になっているが、若年層の無意識的な反射と考えることもできる。
社会のアノミー化を防ぐためには
今後、会社の解体、そして家族の解体を防ぐことができないとした場合、そこから派生する社会のアノミー化を防ぐには何が鍵になるだろうか。一つ目は家族の復権、二つ目はソーシャルメディア、三つ目は横型コミュニティと命題し、歴史と現在から目を背けることなく考察する。
家族の復権
まずは家族の復権について。日本の離婚率は戦後から1960年代にかけて低下した後は、一貫して高まっているものの、この状況が変わる可能性を示唆する現象がいくつか見られる。例えば結婚年齢が早まる傾向について、これは家族回帰の一つの証左と捉えることもできる。
アメリカでは1980~1990年代にリストラのあらしが吹き荒れた際、親がレイオフされるのを子供の立場から見ていた現在の20~30代は「会社はいずれ裏切る、結局頼れるのは家族しかない」と考え、大切にする傾向が他の世代より強いことが統計で明らかとなっている。
日本では、いわゆるマイルドヤンキーに代表されるような「家族とその友人」という狭い範囲の人的社会資本を重視する層が増えている一方で、都市部ではこうした動きに逆行する、いわば「家族の崩壊」と言えるようなトレンドも永い期間に渡って囁かれており、両極端な流れが存在することになる。
ソーシャルメディア
二つ目に期待したいのが、ソーシャルメディアだ。仮に会社や家族の解体が不可逆的な流れであれば、それに代替する新しい構造を社会は必要とする。哲学者のフリードリッヒ・テンブルクは「社会全体を覆う構造が解体されると、その下の段階にある構造単位の自立性が高まる」と言っている。
もしそうだとした場合、会社や家族という構造の解体に対応し、歴史の必然として新しい社会の紐帯を形成する構造が求められる、ということになる。ソーシャルメディアという媒体に目を向けると、その役目を果たすことになるかもしれない、という希望的観測を持つ人は少なくないはずだ。
横型コミュニティ=ギルド
三つ目が横型コミュニティで、これは会社という縦型コミュニティに代替されるものだとして捉える。歴史的な言葉で表現するなれば、ギルドということになり、いわばその復活を意味することになる。社会人類学者の中根千枝が著書「タテ型社会の構造」で示した通り、戦後から平成にかけての日本では、「会社」がタテ型構造のコミュニティとして最も重要であった。
しかし昨今においては、会社の寿命は短命化が顕著で、経済情勢も踏まえると、コミュニティから排除される人も多数出てくるであろうことが予見される。そうした中で、タテ型構造社会が今後も継続するとは考えられない。ということで、「会社」という枠から「職業」という枠へのコミュニティの転換を図るということが考えられる。
ヨーロッパでは、会社別の労組ではなく職業別の労組がスタンダードであることから、ヨコ型コミュニティとしての「ギルド」が存在し、かつ機能する社会となっている。日本で就職というと「企業に入社する」という概念で捉えられているが、本来、就職とは「職に就く」のであった「社に就く」のではない。
共通の仕事をするグループに所属し、その集団内にじぶんの居場所を作っていく、ということだ。いずれにせよ、重要なのは会社というタテ型構造のコミュニティが、もはや安全なコミュニティとはなり得ない、ということを認識した上で、自律的に自分が所属するコミュニティを構成していくのだ、という意識を持つことだ。
家族も、ソーシャルメディアも、職業別のギルドも、それを作り上げる、あるいは参加してメンテナンスする、という意思がなければ成立しない。そうした自律なくして、自身のアノミー化を防ぐ術はない。そう捉えても間違いではない、恐ろしい未来が垣間見えてしまう時代に来ているのではないだろうか。

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