とにもかくにも、まずはアダム・スミスが提唱した「市場原理」について、その概要を記す。そもそも「市場原理」が示すものに、直接的、哲学に触れるような考察は垣間見えない。それは「市場原理」が経済学に分類される項目であることからも明らかだ。ではなぜ、本稿にてこの要素を取り上げたのか。そこに求める姿勢を記していく。
価格を調整する圧力=市場原理「神の見えざる手」
今日、市場による価格の調整機能は「市場原理」として広く知られている。ここで「市場」を「しじょう」と読むか、「いちば」と読むかで、その手触りが変わってくる。本稿では「いちば」と読むこととする。売り手が市場で何かを売るとき、価格が高すぎれば誰にも相手にされず、かといって安すぎれば継続的に供給できず、いずれも市場からは消えることとなる。
市場で商いを続けるためには、適正な価格で販売しなければいけない、ということの教訓でもある。そうして市場には、「高すぎる価格」と「安すぎる価格」を調整させる圧力が働く。ではこの圧力は誰がかけるのか。実際には市場というシステムがかけることになるが、これをアダム・スミスは「神の見えざる手」と名付けた。
古代から続く市場での商いでは、人の目に見える物もそうではないモノも、「神の見えざる手」によって価格が調整されてきた。その中で、淘汰されずに残留したものは、市場全体としての取引量が中長期的に最大化されることとなる。この「神の見えざる手」のメカニズムは、価格調整だけではない、より広範な領域に適用できる概念ではないだろうか。
成り行き=非予定調和な動きをどうとらえるか
「神の見えざる手」によって、市場における価格は非予定調和的に決定される。現代の経済学に触れたことのある人であれば、ここである疑問が浮かぶかもしれない。経営学、中でもマーケティングでは、最適な価格を決定するために古今東西、種々多様な分析ロジックを用いる。
つまりは、経営やマーケティングを行う主体者の理知的な考察の結果、市場や社会で通用するであろう最適な価格を決定する、という大前提が存在している。一方、アダム・スミスの提唱する「神の見えざる手」には、そうした理知的なプロセスは内包されておらず、ランダムに様々な価格が市場において提案されることが前提とされている。
そうこうするうちに、妥当性のない価格は進化論で言うところの自然淘汰のプロセスにより排除されてしまい、やがて最も妥当と市場にて認められた価格に落ち着くことになる。この最終的に落ち着いた価格が、理論的に最適なもの=オプティマルであるかどうかは、誰にもわからない。
それで良しとしよう、という態度
ただし、価格が落ち着いて実際にその価格で売れているのであれば、そして売り手にも利益が出ており、買い手も満足しているのであれば、それはそれでいいじゃないか。そうした、現実に即した=プラグマティックな解と受け取ることに反対する人はいないだろう。つまりはヒューリスティックということだ。
経営学では、そこから導き出される様々なものの見解を、基本的には経営を執行する主体者の理知的な考察によって、できる限り最適に近い解を出そうという態度を前提としている。しかし、そうした提案の元による価格と、市場における自然淘汰を経て落ち着いた価格との、どちらに妥当性があるかを考えれば、答えは明らかに後者となる。
こうした考察一つをとってみても、アダム・スミスの「神の見えざる手」というのは、ヒューリスティックな解を生み出す一種の知的システムと捉えることができるのではないか。そしてこのシステムを、市場における価格決定にだけ用いているというのは、非常にもったいないことこの上ない。
柔軟に。傲慢に陥ることなく、
主体的に、最適な解を求めるための論理的思考が猛威を振るっているのが、この現代という世の中である。そうした中で「何が正解かはわからない。成り行きに決めてもらおう」とする態度は、思考の放棄ではないかと指を差されかねない。特に経営や管理に携わる立場の人であれば、徹頭徹尾、自分の頭で考えるという態度を美徳とし、愚行と捉えるはずはない。
さて、ここまで書いた内容をどう捉えるだろうか。自分の頭で考えるという態度で以て、すべての事柄に対し、最適な解を自らの能力のみで導き出せる、と考える人がいたとして。どれだけ知的傲慢かを自覚すべきではないだろうか。そうした人物たちをアダム・スミスは著書「道徳的感情論」の中で、「秩序体系を奉じる人間」と名付けて徹底的にこき下ろしている。
秩序体系を奉じる人間(マン・オヴ・システム)は、自分自身がとても賢明であるとうぬぼれることが多く、統治に関する彼独自の理想的な計画がもっている想像上の美しさに心を奪われることがしばしばあるため、どの部分であろうとおかまいなく、それからのごくわずかな逸脱にも我慢できない。彼は、最大の利益とか、それと矛盾しかねない最大の偏見についてはまったく考慮せず、理想的な計画を、完全にしかも事細かに規定しつづける。彼は、まるで競技者がチェス盤のうえでさまざな駒を配列するかのように、大きな社会のさまざまな構成員を管理できる、と想像しているように思われる。チェス盤の上の駒は、競技者がそれぞれに付与するもの以外に動き方の原則(プリンシパル)をもたないが、人間社会という大きなチェス盤の場合、それぞれの駒すべてが、それ自身の動き方の原則ー立法府が個人に付与するようにきめかねないものとは、まったく異なるーをもっているなど、彼は考えてもみないのである。
モノゴトの関連性がますます複雑になり、変化のダイナミクスが強まっている現在のような社会で、理知的なトップダウン思考によって最適な解に到達することができる、とするのは知的傲慢を通り越して滑稽ですらある。オプティマルなアプローチではなく、満足できる解をヒューリスティックな態度で求めようとする、そうした柔軟性も必要ではないだろうか。

コメント