エマニュエル・レヴィナスが指す「他者」とは、文字通りの他者ではなく、「わかりあえない者、理解できない者」という意味合いを有する。レヴィナスはこの他者を、人間以外の概念にも拡大して用いているがそのテキストはどうにも難しく、よってここでは一旦、他者の定義を「わかりあえない存在」とし、考察することとする。
20世紀後半における大きな問題「他者論」
哲学というのは、世界や人間の本性について考察する営みである。古代ギリシア以降、人類は膨大なエネルギーを費やし考察してきたにも拘わらず、「これが決定打だ」とされるものが確定されないのは、なぜなのか。それは、ある人にとって「これが答えだ」とされるものが、「他者」にとっては決してそうであるとはいえないからだ。
時代時代において「提案」と「否定」が続き、そして永遠に「完全な合意」に至ることのないこの営みが、「わかりあえない存在」として、レヴィナスが説く「他者」の存在に繋がったのだろうか。普段用いる「他者」よりもはるかにネガティブなニュアンスを持つこの「他者」について、それでもレヴィナスはその重要性と可能性について論じ続けた。
他者とは学びや気付きの契機である
自分の視点から世界を理解しても、それは「他者」による世界の理解とは異なる。このとき、自分の見方とは異なる他者の見方を「お前は間違っている」と否定することもできる。事実、人類が起こした悲劇の多くは、そうした「自分は正しく、自身の言説を理解しない他者は間違っている」という断定のゆえに引き起こされている。
しかし、自分と世界の見方を異とする「他者」を、学びや気付きの契機とすることで、我々は今までの自分とは異なる世界の見方を獲得できる可能性がある。レヴィナスは、こうした体験をユダヤ教の師匠とその弟子である自身との関係性の中から体験的に掴み取ったようで、この感覚は師匠について何らかの習い事の経験がある人であれば心当たりがあるかもしれない。
何をどう説明されても「わからなかった」感覚は、ある瞬間に気づくと氷解し、その瞬間いったい何があったのかは自分でも遡及的に体験することはできない。とにかく、「わからなかった」ことが、なぜかはわからないが今になって「わかった」と感じられる。つまるところ、「わかる」ということは、「かわる」ということである。
わかり、かわる機会と他者の顔
未知のことを「わかる」ためには、いまはわからないもの、に触れる必要がある。それを拒絶するということは、「わかる」機会は失われてしまい、同時に「かわる」機会もまた失われてしまう。だからこそ、「わかりあえない存在=他者」との出会いは、自分がかわることへの契機となる。
わかりあえない存在、場合によっては敵対的になりうる可能性のある「他者」という存在。そうした存在との邂逅において、レヴィナスはしばしば「顔」の重要性を指摘している。彼の著書「困難な自由 ユダヤ教についての試論」より、下記文章を抜粋する。
ひとり「汝殺す勿れ」を告げる顔のヴィジョンだけが、自己満足のうちにも、あるいはわたしたちの能力を試すような障害の経験のうちにも、回帰することがない。というのは、現実には殺すことは可能だからである。ただし殺すことができるのは、他者の顔を見つめない場合だけである。
これほどまでに、「なんだかよくわからないけど、何かとても大事なことが書かれている気がする」と感じさせる文章は少ないのではないか。レヴィナスの文章は全体に難解であるが、言葉がもたらすイメージの広がりを素直にすくい取っていくと、読む人それぞれなりに「ストン」と来るところがあるように思う。
レヴィナスが言おうとしているのは、「分かりあえない存在」とのあいだであっても、「顔」というビジョンを交換することによって、関係性を破壊することは抑止できる、ということだ。例えば、同様のシーンを暗に伝える映画として、スティーブン・スピルバーグの「E.T」について考察してみる。
顔のビジョンの交換
地球探査に来て宇宙船から取り残されてしまった異星人と、その異星人をなんとか宇宙へ帰してあげようとする子供たちとの友情が描かれた「E.T」。彼らの敵役として描かれている地球人の大人たちは、この異星人を捕獲して研究材料にするため子供たちを追い詰める。
子供たちは、なんとか大人たちの包囲網を逃れ、異星人は地球に迎えに来た宇宙船にたどりつき、そして地球を去っていく。この映画には異常とも言える特徴がある。それは大人たちの「顔」が画面に表示されることがない、ということだ。出てくるのは徹底的に「子供」と「異星人」の顔だけで、唯一、主人公の母親を除き大人たちの顔は出てこない。
主人公の子供たちにとって、大人たちは「他者」として描かれている、ということだ。この映画には大勢の大人が敵役として登場する。大人の顔が画面に映るかと思いきや腰から上が画面上から切れていたり、逆光でシルエットになっていたり、放射能を防ぐためであろうヘルメットに覆われていたり。レヴィナスが指す「顔」のビジョンが交換されることはない。
いよいよクライマックスとなり、瀕死に陥ってしまった異星人を助けるために、大人たちと子供たちが協力するシーンに至って、大人たちはヘルメットを取ることで子供たちと直面し、ようやく主人公である子供たちと「顔」のビジョンが交換される。
レヴィナスが唱えた「他者」の概念は、現在においてますますその重要性を高めているように思う。日本においては北朝鮮やISといった、対話そのものが難しいと感じられる国家間の関係性や、国内社会であればネットによる島宇宙化が進むことで、年収や職業や政治的傾向により、形成された社会的なグループごとの原理主義的な純粋培養。
そうしたものにより、相互の意見がほとんど「対話不可」と言っていいほど難しい状況に陥ってしまっている。しかし、そうした状況だとしても、今後ますますそれが加速するとしても、「顔」を見合わせて対話をし続ける努力が、我々には必要なのではないだろうか。
エマニュエル・レヴィナス
エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Levinas, 1906年1月12日 – 1995年12月25日)は、フランスの哲学者であり、ユダヤ系リトアニア人としても知られ、特に倫理学と他者性について深い洞察を示しました。レヴィナスの思想は、人間関係における他者の顔に注目し、その「顔」から現れる責任の重視を通じて、倫理を哲学の根本として考えるという新しいアプローチを提案しています。
他者性(Alterity)と倫理
レヴィナスの倫理学は、他者の「顔」に対する責任から始まります。彼にとって他者は、自分とは異なる存在であり、決して完全に理解することのできない存在です。この「他者性」と呼ばれる他者の異質性は、人間同士の関係において常に存在します。
彼の倫理は「他者に応える責任」という視点を重視し、他者の顔を通じて、私たちは「自分が他者のために責任を持たなければならない」という意識が引き出されると述べました。この責任は、相手がどのような人であるかや、どのような関係にあるかを問わず無条件に生じるものとされています。
顔の概念
レヴィナスにとって、他者の「顔」(la face)とは単なる視覚的な特徴ではなく、他者の存在そのものが直接的に訴えかけてくるものです。顔は、相手が「ただの対象」ではなく、自分と対等に向き合う他者であることを示しています。
この顔を見ることにより、人は他者が持つ「自分を超えた存在」を直感し、そこに倫理的な責任を感じます。レヴィナスは、「他者の顔に対する応答こそが倫理の本質」であるとし、「顔」によって自分の意志や利己心を超越した次元での応答が要求されると論じました。
「第一哲学」としての倫理
レヴィナスは、従来の哲学が存在や認識、知識に重きを置いていたことに異議を唱え、倫理こそが「第一哲学」であるべきだと主張しました。つまり、存在論的な問いや知識の探求よりも先に、他者に対する責任や倫理的な関係が根本にあると考えました。
彼は、この倫理的な関係がすべての哲学的・社会的・人間的な考察の基盤となるべきであると述べ、これにより哲学の伝統的な枠組みから脱却し、新しい倫理学を提唱しました。
全体性と無限
主著『全体性と無限』(Totalité et Infini, 1961年)は、レヴィナスの倫理学の中心的な作品であり、彼の思想を包括的に述べたものです。この中で、レヴィナスは「全体性」(Totality)と「無限」(Infinity)という概念を対置しています。
「全体性」とは、対象を単一の枠組みに収め、他者を理解し、解釈し尽くそうとする態度を指します。一方、「無限」は、他者が完全に把握されることのない異質性を示し、他者の無限の可能性を尊重する考え方です。
レヴィナスは、「全体性」の枠組みで他者を捉えることが支配的・暴力的であると考え、「無限」を受け入れることで他者に対する責任や配慮が生まれるとしました。
「私と他者」の関係性
レヴィナスの哲学は「自己と他者の関係性」を軸にしています。彼は、他者との関係は単に交流やコミュニケーションにとどまらず、他者に対して自分が無限の責任を負う関係であると考えました。
特に「自己」は、他者を通して自らの限界や不完全さを認識し、自分が他者に対して果たすべき役割や責任について自覚することになります。したがって、他者との関係が自己の存在や価値観を形成し、社会における倫理的な行動の基盤となるのです。
影響と評価
エマニュエル・レヴィナスの思想は、哲学、神学、倫理学、人間学にとどまらず、社会学や教育学、政治学、文学など幅広い分野で評価されています。彼の倫理学は、他者の存在を認め、尊重し、無条件に応答する責任という考え方を中心に据えています。これにより、個人の自由や権利を超えて他者のために生きることを説き、現代社会の自己中心的な傾向や疎外された人間関係に警鐘を鳴らしました。
特にホロコーストや戦争といった人道的な危機を経験した背景から、人間関係の根底にある倫理を再考する必要があると強調し、これが多くの共感と支持を集めました。レヴィナスの哲学は、他者とともに生きることへの倫理的な関与を示すものであり、現代における人間性の再定義と共生社会の実現に向けた重要な指針となっています。

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