ハンナ・アーレントが書き記した著書「エルサレムのアイヒマン」、その副題が「悪の陳腐さについての報告」である。我々が持つ「悪」についての認識「普通ではない、何か特別なもの」に対し、揺さぶりをかける。
600万人を処理したナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画
1960年、アルゼンチンでの逃亡生活中にイスラエルの秘密警察モサドに拿捕されたアドルフ・アイヒマン。その後エルサレムで裁判を受け処刑される。連行されるアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受ける。
アイヒマンは、「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」ではなく、「小柄で気の弱そうなごく普通の人」であった。そんな気の弱そうな人物が犯した罪の数々を明らかにした裁判と、その様子を傍聴し報告書兼本としてまとめたのがハンナ・アーレントだ。
虐殺は出世するための任務
アイヒマンは、600万人ものユダヤ人を処理するために、効率的なシステムの構築と運営において主導的な役割を果たした。ユダヤ民族に対する憎悪や、ヨーロッパに対する攻撃心といったものが理由ではない。
ただ純粋に、ナチス党において出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなしただけ。
悪とは、システムを無批判に受け入れることである
人類史上において、最も恐るべき罪を犯すこととなった経緯を傍聴したハンナ・アーレントは、最終的にこうまとめた。「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。
システムを無批判に受け入れる悪、というものを、ハンナ・アーレントは「陳腐」という言葉を用い、警鐘を鳴らしている。
この世にありふれている
副題である「悪の陳腐さについての報告」について、改めて考えてみる。
通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者は正規分布で表すと両端に位置付けられる。しかしハンナ・アーレントは「陳腐」という言葉で「悪」を記している。
「陳腐」というのは「ありふれていること」「つまらないこと」という意味で、正規分布の概念で言えば、最頻値あるいは中央値ということになり、我々が一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なる。
能動的ではなく受動的になされることにこそ悪の本質がある
「悪」というのは、それを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられがちである。
しかしハンナ・アーレントは、むしろそれを意図することなく受動的になされることにこそ、「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘している。
人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの悪の怪物がなしたのではなく、ただシステムに則り物事を実行することだけに執心した小役人によって引き起こされた。
凡庸な人間こそが極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになりうるということだ。ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語る上で大変重要なものである。
現代に当てはめた考察
私たちは日常生活を送る上で、意識しているかしていないかに関係なく、システムに則りなんらかの行動を実行している。仕事をしたり遊んだり思考したりと、その模様は多岐に渡る。
そうした中で、どれだけの人がシステムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいて眺めるということをしているかというと、これは甚だ心もとない。
システムの危険性に思いを至らすよりも、システムのルールを見抜きその中でうまくやる、ということをつい考えてしまう。
うまくやるか変えていくか
過去の歴史を振り返ってみれば、時代時代に支配的だったシステムが、より良いシステムにリプレースされることで世の中は進化してきた側面もある。
現在の我々が則っているシステムも、いずれより良いシステムにリプレースされるべきなのかもしれない。そのように捉えてみると、究極的には次の2つの生き方が考えられる。
- 現行のシステムを受け入れ、いかにうまくやるか
- 現行のシステムを受け入れず、より良いものに変えていこうとするか
多くの人が、前者の生き方を選択しているというのは、経験的概算値により疑いようのない事実のように思える。選択してしまう背景に見え隠れしている思惑は、「うまくやれる」からだ。
そうして、そのような人の思考様式や行動様式が広く採用され、同様のシステムが増殖あるいは強化を果たしていく。そういうシステムが継続的に維持されるということは、真にいいことなのだろうかと疑問を持たずにはいられない。
改めて、ハンナ・アーレントが報告した悪の陳腐さについて考える。誰しもが「悪」になる可能性がある。その可能性を考えるのは恐ろしいが、だからこそ思考停止してはならない。「悪」と「そうではないこと」を分かつのは、「システムを批判的に思考する」ことである。

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