哲学を学ぶことの最大の効用は、「いま、目の前で何が起きているのか」を深く洞察するためのヒントを、数多く手に入れることができるということ。
「いま、目の前で何が起きているのか」という問いは、言うまでもなく、多くの経営者や社会運動家が向き合わなければならない最重要の問いでもある。
多くの哲学者が残した数々のキーコンセプトを学び知っていることが、「目の前で何が起きているのか」という問いへの答えを出すための、大きな洞察となる。
教育革命を例とした場合
世界で教育革命と言われる流れが進行している。有名なフィンランドの革命の内容と言えば、年次別のカリキュラムを止めてしまう、教科別の授業を止めてしまう、というもの。
日本の教育機関、所謂小学校や中学校、高等学校や大学に通った者やそれを知っている者からすると、随分と懐疑的に映るであろう内容となっている。学校の授業と言えば、同じ年齢の子供が教室に並んで、同じ教科を同時に勉強する、というのが通例であることが理由に挙げられる。
フィンランドの教育革命とは、「自分たちが慣れ親しんでいるもの」とは異なる、なんらかの「新しい教育の仕組みが出てきた」、という理解に落ち着く。
弁証法を知っているとどうなるか
弁証法という枠組みを用いて考えると、先ほどの理解とは異なる理解が立ち上がる。
「新しい教育の仕組みが出てきた」のではなく、「古い教育の仕組みが復活してきた」という理解である。
弁証法とは、主張A、それに反対あるいは矛盾する主張B、この2つを否定することなく統合し新しい主張Cに進化する、という思考のプロセスを指す言葉である。統合・進化は直線状ではなくらせん状に行われる。横から見ればジグザグの上昇運動、上から見れば円上の回転運動、に見える。
発展と復古が同時に起きる、ということである。
富国強兵政策と寺子屋
今日の日本における強制的な教育システムは義務教育で、一定の年齢になった子供を同じ場所に集めて、単位時間を区切って同じ教科を学ばせる。我々が慣れ親しんだこのシステムは、明治時代、1872年に公布された富国強兵政策のもと、一度に、大量の子供に同等の教育を施すため、編み出されたシステムである。
富国強兵政策が交付される明治維新以前における教育の在り方は、教育を受ける者の年齢もバラバラなら、学ぶ教科もバラバラ、という寺子屋が存在していた。学校という存在があるわけではなく、学がある知識人が、そうではない人に勉強を指南する、という形式であった。これは、今現在、フィンランドを中心として世界で進めようとしている教育革命の方向性に近い。
発展的な回帰として洞察できるかどうか
現代における教育革命の在り方は、近代の教育システムに慣れ親しんだ者から見ると新しいシステムのように見えるが、100年単位の長い時間軸で見てみると、古いもの、より正確に表現するならば過去に存在したもの、だと捉えることができる。
古いものが、ただ古いまま、復活したのでは単なる後退ということになってしまうため、なんらかの発展的要素を含んだ回帰である必要がある。現代の教育革命に当てはめてみると、発展的要素はICTが該当する。
一例として教育革命を挙げたが、こうした「過去のシステムの発展的な回帰」として洞察できるかどうかは、弁証法というコンセプトを知っているかどうかによって大きく変わる。
目の前で起こっていることが、どのような運動なのか、そしてこれから何が起きようとしているのか。そうしたことを深く理解するために、過去の哲学者が提案した様々な思考の枠組みやコンセプトが、一助となってくれるのである。

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