「疎外されるということ」本来自分のものであるはずのものが、自分を支配する他者として立ち現れる

(タイトル案1)誰しもが透明な檻に閉じ込められている|【疎外】というキーワードから読み解く現代のシステム

まず最初に「疎外」という言葉がそもそも何を示しているのかについての解説です。どういう文脈の中で利用されるのか。それについてご説明しようと思います。

私たちが日々の生活を営む中で、「疎外」は「至るところで発生」しています。一人ひとりの「様々な場面で起こっている」という言い方をすることもできるでしょう。

と書いておきながら、「疎外」とは「こういうものである」という詳細な説明をするということは、大変に難しい、ということを主張したい。(出鼻をくじくことになり、すみません。)

というのは、確かに「疎外」は日々の生活の中で起こってはいるものの、その一つひとつが全く異なる文脈の中で起こっているものであり、今まさに「疎外」が発生している「あの場面」と「この場面」における共通した内情を、一見して見出すことが困難であるから、です。

どういうことでしょうか。とりあえず、「分かりやすく」ということを目標に書いていきます。もっとも分かりやすい「疎外」は、日常的な人間関係の中に見え隠れしています。

「疎外感」と言えば伝わるでしょうか。仲間外れという言い方もできるでしょう。自分は集団の一部であったはずなのに、その集団の内部から外部へと追いやられてしまう。

この「疎外感」を掘り下げるのは一旦後にして、別の「疎外」について書いていきましょう。次の「疎外」は経済学の文脈で使われている「疎外」です。

「経済学には興味ないなぁ」と思われる方もいるかもしれません。「そんな話になってくるなら自分は関係ない」という気持ちが一瞬のうちに胸をかけめぐった人もいるでしょう。

しかし、現在を生きる私たちにとって、この経済学における疎外と無関係でいられる人は、おそらく誰一人として存在しないと私は考えます。

それどころか、今この瞬間において「ごく自然」と思われているようなことですら、経済学における疎外に内在されている可能性が高いのです。

別の言い方をしましょう。私たちは皆、知らずしらずのうちに経済学の疎外にからめ取られている。

こちらについても、深掘りするのは後回しにします。続いての「疎外」は、精神分析の文脈で使われる「疎外」です。いよいよもって明後日の方向に向かいそうな感じがしますが、このまま続けます。

精神分析とまでなると、先の経済学よりも距離を置きたいと考える人が増えるのではないか。私自身ですら身構えてしまう文脈の一節です。

しかし、この精神分析の疎外について、ひとたび触れてしまうと「誰もが自分が陥ったことのある経験」として理解・把握できるものとして映るでしょう。

一旦まとめます。「疎外」という言葉は、日常的な人間関係における疎外、経済学における疎外、精神分析における疎外、の三つの文脈で利用されます。

他の文脈でも利用されるよ、という議論が起こるでしょうし、私自身もそうした思考があることを前提としつつも、一旦ここは「疎外といったらまぁその三つね」くらいのゆるやかな了解にとどめておいて、話を先に進めます。

分かりやすそうな、日常的な人間関係における疎外=疎外感(仲間外れ)から解説するのもありです。しかし、ここは敢えて経済学における疎外から深掘りすることにします。

その理由は単純で、経済学における疎外が、実は私たちのもっとも身近で発生している疎外だから、です。

ご説明しましょう。

確認すれば、経済学における疎外とは、経済学者(そして革命家であり思想家、哲学者)であるカール・マルクス(1818-1883)が残した言葉です。彼は著書「経済学・哲学草稿」で、四つの疎外について記述しています。

三つの文脈で利用される旨を了解した矢先での、四つの疎外ということで、ややこしくてすみません。経済学の疎外があって、その中にはさらに四つの疎外があるんだな、くらいの単純な思考で読み進めてください。

まずは四つの疎外をそれぞれ書いていきます。一つ目は「労働生産物からの疎外」、二つ目に「労働からの疎外」、三つ目に「類的疎外」、四つ目が「人間からの疎外」となります。

マルクスは、四つの疎外それぞれに固有の詳細な指摘をしているのですが、ここではその説明にスペースを割くことはしません。簡潔にまとめてくれている先人の文章に着目しましょう。

「疎外というのは、人間が作り出したものが人間から離れてしまい、むしろ人間をコントロールするようになることです。」(山口周『武器になる哲学』)

私たちは、内容と程度の差はあれど、なんらかの労働に携わることで生活を可能としていますね。

マルクスが指摘した疎外とは、私たちが労働によって生み出した生産物が資本家に奪われ、結果として私たちを苦しめる敵対的な力となる、だけではなく、更には私たちを支配すること、までを指します。

逆説的に解説すれば、生活を可能とするにはなんらかの労働に携わるしかなく、そこにはマルクスが指摘した疎外が必然的に発生している、ということになります。

工場での労働とそこでのスマホの生産を例に説明しましょう。スマホを生産する工場で働いている人がいます。一日中働いてスマホを100台生産しました。しかし、その生産したスマホの1台であっても、その人がその日のうちに持って帰る、というわけにはいきません。

スマホを手に入れるためには、購入する必要があります。場合によっては、購入するために借金をします。続いてその購入したスマホを利用するようになる。1日中スマホを手にし操作をし続けます。気が付けばあっという間に時間が過ぎ去ってしまっていた。

自分で生産したスマホを自分で購入し、その購入したスマホを使用するのはいいが、結果的にスマホに使用される側に立ち返ってしまっている。つまりは支配されている、ということです。

簡素となりますが、ここまでが経済学における疎外です。「カール・マルクスの疎外」と言うこともできるでしょう。

続いて、精神分析における疎外について書いていきます。精神分析における疎外は、精神科医(精神分析家、哲学者)であるジャック・ラカン(1901-1981)の専門領域に位置しています。

結論から。私たちは日々の生活の中で、自分の思考を伝えるために言葉を使う。その言葉は自分専用のものではなく、私たちが所属する社会のルールに従ったものである。ということをラカンは言っています。

言語という「他者の体系」を受け入れなければ、自分を表現できない。それは「自分を語るほど、他者の言葉に染まっていく」ということです。

これまでの解説が「疎外」という言葉とどのような文脈依存性があるのか。こちらについても、先人が記した文章に頼ることにしましょう。

「「ことばが届かない〈あるもの〉が、そこにある」という事実を確信することは、被分析者を沈黙とコミュニケーションの断念にではなく、むしろ「聴き手」をめざす発語へ、対話へと駆り立てるからです。被分析者の語る物語の奥底に在する「根源的な疎外」は治療を妨害するのではなく、むしろそれを進行させる力なのです。精神分析の対話は、この被分析者の「満たされなさ」を生成的な核として展開することになります。」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』)

突然の精神分析的な文章に戸惑わせてしまったかもしれませんね。

精神分析を必要としている被分析者は、分析者と対話をすることで治療を目指します。その対話の中に「根源的な疎外」が内包されている。

話を少しズラします。精神分析を必要としているのは、そうした状況、つまり、精神分析を必要としている被分析者、と呼ばれる人たちだけなのでしょうか。

私はそう思いません。

私たちは自分の思考や感情を説明するために、言葉を使います。これはあまりにも自明なことでしょう。そして、言葉を使うということは、言語を扱うということです。

これは「私」と「他者」の関係が、1対1であっても、1対多であっても、そして自分の心の中だけで唱える場面であっても同じです。言語を扱うということは、どんな場面においても他の方法に代わりは利かないのです。

夏の暑い日に「自分は今日、暑いと思っている」ことを表現する際「今日は暑い」という言葉になります。冬の寒い日であれば「今日は寒い」という言葉になります。

それは、私たちが置かれた状況を把握し、それによって自分が捉え感じている自分自身の思考と感情、つまりは精神を、無意識のうちに分析している。

言葉を使うということ。言語を扱うということ。これは自己の、あるいは他者と対話をするときにはその他者の、発した言葉を介して、精神を分析しようと試みていることに必然的に帰結します。

そしてこの言葉は、「私」が「その言葉と意味」を理解しているから使えるのです。翻って、理解しているのは「私」だけではありません。「私たち」が共通に理解しているもの、それが言葉なのです。

私たちは、私たちが共通に理解している「ありふれた言葉」を使って、自分の思考や感情を伝えます。

「私」が「言いようのない何かドロドロとした感情」を誰かに伝える必要があったとしても、「私」は「悲しい」「苦しい」「悔しい」というような、みんなが使っている「ありふれた言葉」に当てはめて伝えるしかありません。

このとき、言葉を使えば使うほど、「私」の「本当の生身の感覚」は、「ありふれた言葉」という形にはめられた方向に進んでいくことになる。

そうして「私」の「感情」と、その感情を表現した「言葉」、その言葉が有する「意味」とには、「ズレ」が発生します。ラカンは、そんな「ズレ」を指摘したのです。

話を戻しましょう。

ここまで説明したように、私たちは自己と他者の精神を言葉を介して分析している。しかしその言葉には精神とのズレが生じてしまう。

これが根源的な疎外、つまりは精神分析における疎外です。先に解説した経済学における疎外よりも、根本的で、私たちの誰にとっても、いよいよ逃れられない概念の枠に収まります。

ようやく、日常的な人間関係における疎外の解説です。これは、疎外感=仲間外れに当たります。

まずは、河合隼雄(1928-2007)の著書「こころの処方箋」より抜粋した、こちらの文章をお読みください。

「皆でいろいろ考えてひとつ考えついたことは、祖母から孫の受験に関する「心配」を取り上げてしまったので、急に疎外感を感じたのではないかということであった。」(河合隼雄『こころの処方箋』)

これは、とあるお話の中に出てくる文章です。その中身を書いておきましょう。

浪人生がどこの大学を受験するかで迷っている。両親と共に頭を悩ませている中、同居している祖母には心配をかけまいと「次は大丈夫」とだけ伝え、こまごましたことは何も伝えない。その頃から祖母がボケはじめた。祖母は、自分が意地悪をされている、自分は食べ物を与えてもらっていない、一人だけ放っておいてみんなは食事に行っている、と事実ではないことを親類に言うようになった。

そこで出てくるのが、先に抜粋した文章になります。

続きはと言うと、両親が試しに受験のことについて色々と話してみたところ、ボケているはずの祖母がなんやかやと意見を言うようになった。それはそれでうるさいし、やはり心配をすることになるのでその対応もしなければいけなくはなったものの、祖母のボケは収まってしまった、というところに落ち着きます。

こちらのお話は「心配も苦しみも楽しみのうち」という題名です。話そのものは、心配や苦しみの渦中にあるときは、打ちのめされたり逃れようとのたうち廻るが、そのような状況から抜け出した後に思い直してみると、やっぱり楽しみのうちだったかな、と思えたりしてくる。

そんな体験を重ねていくと、心配や苦しみに対しても落ち着いて受け入れられるようになる。そんなお話です。

明るいと思われる着地でなによりです。しかし、人や時や場所、そして疎外の中身が変われば、決して明るいとは思えない着地となることもあります。言い換えれば、この「日常的な人間関係における疎外」の過程と、その行き着く結果というのは、あまりに多くの方向性を含んでいるということです。

ここでは結果ではなく、過程に着目します。この疎外が意味するのは「自分の居場所が自分を拒絶する壁に変わる」ということです。

今この瞬間まで在籍していた場所で、自分が拒絶され、異物として扱われ始める。

重要なのは、疎外している人たちは、必ずしも意識的に疎外しているわけではない、という場面が考えられることです。それは結果的に起こってしまったことであり、そしてその結果により初めて、疎外していたことに気付く。

意図して疎外しようとすれば発生するのは当然です。意図せずして流れのままにことが進んだとしても、その結果として発生してしまうことがある。

まさに「日常的な人間関係」における疎外と言えます。

ところで、この日常的な人間関係の疎外は、その日常をいつも一人で過ごしている人にも起こるのでしょうか。

私はこう考えました。

いつも一人で過ごしている。社会や世間と関わることがない。もう何年も誰とも口を聞いていない。「日常的な人間関係」は希薄どころかゼロである。だから、人間関係における疎外も発生し得ない。

本当にそうか。

現代社会において孤立と呼ばれる状態。ごく少数の仲間内にも属さず、しかし最大多数の構成員が属する社会という組織の中にあって、それでも誰一人として目を向けない状態。疎外する対象とはなり得ない状態。

それそのものが疎外ということではないのか。

うーむ。なにやら話の見通しが広がりすぎてしまいそうなので、一旦は着地点を見つけることにします。

ですから、再度になりますが、日常的な人間関係における疎外は、そこに意図的なものがあってもなくても発生し得る。であるならば、人間関係の中か外ではなく、それそのものの関係性すらを包含している概念である、という示唆を含んでいるのではないでしょうか。

さて。ここまで「疎外」という言葉が示すもの、そしてその文脈について、解説してきました。

改めて確認すれば、疎外は三つの文脈で利用されます。一つに日常的な人間関係、二つに経済学、三つに精神分析。疎外という言葉はこれまで見てきたように、それ一つの言葉とは思えないほどの豊富すぎる背景を有しています。実に射程が広い概念とも捉えることができます。

一つの言葉が三つの異なる文脈で利用される。それはなぜなのか。三つの文脈のうち一つひとつが独立した背景、しかもそれぞれが強烈な固有の背景を有している概念なのに。にも関わらず、共通して一つの言葉が使われる。それはなぜでしょうか。

「なぜ、理論的背景も水準も異なる分野において書かれた文章に、共通して疎外という一つの言葉が出てくるのか。」それこそが、私がこの記事を書くに至った立脚点であり、同時に、目的を果たすための道しるべを指し示す北極星でもあります。

疎外という言葉が示す異なる文脈をどれだけ掘り起こしたところで、この北極星はその役割を失うには至りませんでした。むしろその輝きは一層強くなり、それでいて手の届かない場所で明々と輝き続けている。

大切なのは、手が届かないからと諦めてしまわないこと。そこにあることを忘れて見失ってしまわないこと。容易に分かろうとしないこと。容易に「分かった」と思わないことです。

「三つの異なる文脈で利用される」ということを、それ一つの概念として捉えてみます。つまりは、三つの的を貫く質量を有した一本の矢を通してみよう、という試みです。

と、書いておきながら、こちらも実に示唆的です。というのも、この矢は、三つの的が重なり合ってそれを貫通するほどの力を有しているのか、はたまた異なる場所に散らばってしまっている的を射ることができるほどの大きさを有しているのか。

それ以外の示唆もあるのかもしれませんが、ここではひとまず、この二項で捉えることにします。

二項を同時に推し量るという無理は避け、思考を進めていくことができそうな方を選択します。私にとっては前者、つまり的は重なり合っていてそれを貫通する側、です。

重なり合っているということは、そこには階層構造が発生します。これまで見てきたような異なる文脈を各階層に割り当てる。

すると起こることとしては、ある階層に自分を置いたとき、別の階層は自分の目に映ることはない。建物の1階にいるとき、2階や3階の様子を自分自身の目で見ることができないのと同じように。

しかし、情報としての把握はできる。1階にいても2階と3階が存在することは自明であり、疑いようのない事実である。ということは、表面上は異なるが、根底には共通した「なにか」があるということか。

ではその「なにか」とは一体なんであろうか。階層構造という言葉の「階層」が示すのは「異なる文脈における疎外」である。

では「構造」が示すのは、「構造」という言葉が示す通り、一見して目には見えないが、共通して確かにそこにあるもの。そのように仮定すれば、「疎外」の構造はこのように表現できるのではないか。

「自分のものであるはずのものが、自分を支配するものとして立ち現れる」

少し回り道をしてしまいましたが、思考を思考するのは辞めて、この記事の続きを構築することにしましょう。そのための土台が、先ほど表現した文節です。

三つの異なる文脈においての疎外。そこに共通して浮かび上がる文節が三つあります。

まず一つ目は「本来そこに属しているはずのものが、そこに属していない」ということです。

経済学における疎外では、労働に勤しむ私は労働そのものから排除されます。精神分析における疎外では、私は私を私と一致させることができません。日常的な人間関係における疎外では、集団にいるはずの私が集団から外されます。

二つ目は「主体が、自分の位置を自明なものとして認識できない」ということです。

生きるための社会の中で。自分の思考と感情を伝えるための言語の中で。一人として属する人間関係の中で。私は、私の居場所を私の居場所だと感じられなくなります。

三つ目は「疎外は、感情ではなく構造として生じる」ということです。

経済も精神分析も集団も、それそのものを構成している構造自体が、疎外を生み出します。私がその構造の中に存在する限り、疎外から自由でいるというわけにはいかなくなるのです。

立脚点は、「同じ言葉が使われているのはなぜなのか」でした。言い換えれば「なぜ、同じ言葉が共有されるのか」ということです。

言葉という単語に焦点を当て、その意味から方向性を探ってみます。

マルクス的観点で見れば疎外とはドイツ語で「Entfremdung(エントフレムデゥング)」、ラカン的観点で見ればフランス語で「Alienation(エイリエネーション)」、どちらもその語源に「よそよそしい状態になること」という意味を含んでいます。

自分が生み出したもの、自分の内面を表現したもの、自分が所属する場所。そうしたものが「よそよそしくなる」状態。

労働も言葉も社会も、この世を生きる私たちにとっては必要不可欠な「システム」で、このシステムに参加しないという選択肢は無いと言えます。

そのシステムを活用することで、自己の何かを叶えようとする。つまりはそのシステムの主導権を握ろうとすることと同義です。

しかし実際には、そのシステムに私が従うことになり主導権を握られる。自ら従っているというつもりはなく、また従わされているという苦しみすら感じることもないままに。

私には、「疎外」という言葉がこれほど多義的に使われ、そのどれもに多様な背景が垣間見えるのは、もはや人間が人間であるために避けては通れない概念であるもののように映ります。

徐々にその輪郭をなぞることができてきたように思える「疎外」。

次の記事では「疎外」を別の角度から考察してみます。なにやらネガティブなものとして捉えてしまいそうな概念である疎外。私たちはこれを、「意味のある経験」として語ることはできるのでしょうか。

そして、克服できるのか。そして克服すべきものなのか。

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