学びはもう知ってるからと思った瞬間に停滞する「無知の知」-ソクラテス

古代ギリシアにて、世界のへそ(中心)と呼ばれたデルポイにて受けた「ソクラテス以上の賢者はいない」という神託を反証するため、多くの「賢者」と様々な対話を繰り返したのが、何者でもないソクラテスである。しかし対話を繰り返すうちに、ソクラテスは気付く。賢者たちは自分の話すら完全には理解していないということに。

無知の知

無知の知とは「知らないということを知っている」ということだ。そもそも「自分は知らないのだ」という認識を持てないと、学習がスタートしない。そして「自分は知っているから」と考えている人は知的に怠慢となってしまう。「自分は知らない」と思うからこそ、調べたり人に聞いたりという努力が駆動される。

こうした概念を、達人=マスタリーへの道として整理すると、次のようになる。

  1. 知らないことを知らない
  2. 知らないことを知っている
  3. 知っていることを知っている
  4. 知っていることを知らない

「知らないことを知らない」状態はスタート以前ということになる。「知らない」ことすら「知らない」ため、学びへの欲求や必要性は生まれ得ない。ソクラテスが指摘したのは、多くの賢者と言われる人々は「知ったかぶり」をしているだけで、本当は「知らないことを知らない」状態にある、ということだ。

次に、なんらかの契機から「知らないことを知っている」状態に移行すると、ここで初めて、学びへの欲求や必要性が生じる。そうして学習や経験を重ねることで「知っていることを知っている」状態へ移行する。「自分が知っていることについて、自分で意識的になっている」という状態だ。

そうして最後は「知っていることを知らない」状態、まさに本当の達人=マスタリーの領域となる。つまり、知っていることについて意識的ではないが、自動的に体が反応してこなせるレベル、ということだ。ビジネスでいうところのベストプラクティスを実践している人たちが、これに該当する。

余談となるが、どのような業種や職種においても、達人=マスタリーに教えを乞うとなると、中々に難しい場面が多い。どのようにすればいいのか、といったことを聞いても、達人=マスタリーは「知っていることを知らない」ため「特に何もしていないんだけどなぁ…」なんてことを返されてしまう。こうなると、聞くよりも仕事現場を見て、観察したほうがよい。

「わかる」ということ

さて、私たちは容易に「わかった」と思ってしまいがちだ。しかし、本当にそうだろうか。英文学者の渡部昇一は著書「知的生活の方法」にて「ゾクゾクするほどわからなければ、わかっていないのだ」と指摘している。歴史学者の阿部謹也には師である上原専禄から「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」と言われたエピソードがある。

両者ともに「わかる」ということへの深遠さ、そして自分へのインパクトを指摘している。私たちの学びは「わかった」と思ったときにはもう停滞してしまう。本当に「ゾクゾクするほどわかったのか」、「わかることによって自分が変わった」と思えるほどにまでわかったのか。「わかった」ということについて、もう少し謙虚になってもいいのではないだろうか。

自分が「変わる」ということ

先のような忠告は、様々な場面で短兵急にモノゴトをまとめてしまいがち、であることの危険性をも思い起こさせてくれる。多くの人(特に上司)は話し合いの場で出た様々な意見を「要するに〇〇ということだよね」と一般化してパターン認識に当てはめようとする。話の要点を抽出しつつ一般化してまとめるということが、常に良い結果をもたらすとは限らない。

対話において、話し手が一生懸命に説明したのち、最後に聞き手から「要は〇〇ですね」と言われると、それがある程度の要領を得たものであったとしても、もしかしたら最重要な点については消化不良に、あるいはこぼれ落ちてしまう事態に、ともなり兼ねない。

なによりも、そうした聞き手に回る機会が多い職種に就いている人にとって、もし一般化してまとめしまうのが習慣化していると、世界観を拡大する機会を制限することとなってしまう。私たちは無意識レベルにおいて、心の中で「メンタルモデル」を形成する。メンタルモデルは、私たち一人ひとりが心の中に持っている「世界を見る枠組み」だ。

現実の外的世界から五感を通じて知覚した情報は、メンタルモデルで理解できる形にフィルタリング・歪曲された上で受け取られる。全ての情報を「要は〇〇だから」と、自分の持っているメンタルモデルに当てはめて理解するばかりでは、「自分が変わる」契機は得られない。

コミュニケーションレベル

それではここで、「聞き手」に該当する人たちが、どのような知的態度で「聞き手」となればいいのか、ということについて少し考察したい。マサチューセッツ工科大学のC・オットー・シャーマーが提唱した「U理論」では、人とのコミュニケーションにおける「聞き方の深さ」に関して、四つのレベルがあると説明されている。

  1. 自分の枠内の視点で考える(新しい情報を過去の思い込みの中に流し込む。将来が過去の延長上にあれば有効だが、そうでない場合、状況は壊滅的に悪化する)
  2. 視点が自分と周辺の境界にある(事実を客観的に認識できる。未来が過去の延長上にある場合は有効だが、そうでない場合は本質的な問題にたどり着けず対処療法のモグラたたきとなる)
  3. 自分の外に視点がある(顧客の感情を、顧客が日常使っている言葉で表現できるほど一体化する。相手とビジネス取引以上の関係を築ける)
  4. 自由な視点(何か大きなものとつながった感情を得る。理論の積み上げではなく、今まで生きてきた体験、知識が全部つながるような知覚をする)

4段階のコミュニケーションレベルのうち、「要は〇〇」とまとめる態度は、もっともレベルの低い聞き方にすぎないということがわかる。こうした聞き方ばかりしていては、これまでの枠組みから脱する機会を得ることはできない。深い気付きや創造的な発見と生成を起こすには、自分の知っている過去のデータと照合することはなるべく戒めないといけない。

自分が「わかっている」パターンに当てはめてしまえば、新たな可能性を失う可能性があるのだ、と思い起こすようにしたい。容易に「わかる」という態度は、過去の知覚の枠組みを累積的に補強するだけの効果しかない、ということだ。本当に自分が変わり、成長するためには、容易に「わかった」と思うことを、もう少し戒めてみてもいいのではないだろうか。

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