パノプティコンとは、円周場に配置された独房と、中心に配置された監視所からなる刑務所のことで、ミシェル・フーコーはこのパノプティコンの持つ「監視圧力」に着目した。尚、もともと、パノプティコンという形態の刑務所を構想したのは18世紀イギリスの哲学者であるジェレミー・ベンサムであった。
パノプティコン
なぜ、哲学者であるベンサムが刑務所の構造デザインを手掛けたのか。ベンサムは「最大多数の最大幸福」を理想の社会とし、そのような社会においては犯罪者の更生もまた、最大化されなければならない、ということでパノプティコンなるものを考案した。このよな刑務所で本当に収監者が快適に暮らせるのか、という疑問は本項では取り上げない。
パノプティコンでは、円周上に配置された独房は中心にある監視塔から常に見張られている。一方、独房の囚人たちからは看守がどこにいるのか、どこを見張っているのか、といったことが見ることができないようになっている。「少数の看守で多くの独房を効率的に監視できる」ことを目的に構想されたのがパノプティコンだ。
監視されている
さて、先述した構想は物理的に「少数の看守で多くの独房を効率的に監視できる」わけだが、そうした利便性とは別の点となる「監視されているという心理的圧力」に着目したのがフーコーである。この「監視されているという心理的圧力」が、現代においては独房ではなく、広く社会一般にも広がりつつあるということを、フーコーは指摘している。
心理的な圧力
フーコーは「監視されているという心理的圧力」が、人間の個性、つまりは自由な思想や行動を抑圧している、そしてこの圧力に屈しない「強い個人」が存在しようものなら、その「強い個人」を集団から異常な者として排除することに繋がっている、と指摘するわけだ。
近代国家では、法律や規律といった「外部の制度」により国民を支配するだけではなく、訓練によって形成された、いわゆる「道徳や倫理」によって支配する形をとるようになった、というのがフーコーの指摘だ。私たちは、いつも自律的に「それが良いことだから」「それが道徳的だから」という「自分の内面の理由付け」により行動を起こしていると感じている。
しかし、それこそが「新しい支配の形態だ」とフーコーは警告する。自分が起こしている行動が、本当によいことなのか、本当に道徳的なのか。そもそも何をもって良い、道徳的と見なすのか、そうした潜在的な感情すら、羽化直後の鳥の雛が本当の親ではない別の親を「真の親だと思い込む」刷り込みと同様、人も教育と言う名のもとに刷り込まれているのではないか。
押さえ込めないなら飼いならす
さて、この指摘を広く一般社会へ適用して考えてみるとどうなるか。一つは、なんらかの圧力をかけることが必要だという局面において、必ずしも実際の監視が必要ではない、ということだ。傍若無人なふるまいを繰り返す人物に行動の是正を迫るような圧力をかける場合、実際の監視よりも「監視されている」と本人に感じさせるような仕組みの構築が重要となる。
二つ目は、実際に監視をしていない場合でも、監視の圧力が生まれてしまう可能性がある、ということだ。監視の圧力は、当然ながら規範的な思考や行動へ人を促すことになる。しかし、そのような規範に全ての人が従うような社会や組織では、ポジティブなエラー=イノベーションの可能性は期待できない。
パノプティコンが生み出す圧力は、社会や組織の中において必然的に生じてしまう。これを押さえ込もうとしても結局はうまくいかない。重要なのは、必然的に生み出されるこの圧力を、社会や組織の課題や方向性と整合した形で、うまく「飼いならす」ということだ。

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