差別は同質性が高いからこそ生まれる「格差」-セルジュ・モスコヴィッシ

多くの人が建前上、あるいは表面上、社会の様々な場面でどのようにすれば公正な評価を下し下されるのか、という問いに向き合っている。その問い自体を否定するのではなく、別の問いを立てることで本項の考察とする。その問いとは「公正とは本当に良いものなのか」というものだ。この問いの発端となったセルジュ・モスコヴィッシの指摘を紐解いていく。

差別というもの

今日の日本では、江戸時代までに続いた身分差別制度を撤廃し、民主主義社会を実現した、ということに一応はなっている。しかし、誰もが知っているとおり、差別や格差は根絶されてはいない。むしろ、江戸時代のように公然と身分が分かれていた時代よりも、陰湿で深刻な問題として社会を蝕んでいるようにも見受けられる。

果たしてそれはなぜなのか。理由は単純で、身分の差がなくなり、建前上は誰にでも機会が公平に与えられているからこそ、差別や格差がよりクローズアップされているからだ。この問題を2000年以上も前に指摘しているのが、主著「弁論術」にて次のように述べたアリストテレスだ。

すなわち、妬みを抱くのは、自分と同じか、同じだと思える者がいる人々である。ところで、同じ人と私が言うのは、家系や血縁関係や年配、人柄、世評、財産などの面で同じような人のことである。また、人々はいかなる人に対し妬みを抱くかという点も、もう明らかである。なぜなら、他の問題と一緒にもう語られているから。すなわち、時や場所や年配、世の世評などで自分に近い者に対して妬みを抱くのである。

アリストテレス「弁論術」

公平でないと感じる理由

江戸時代における封建社会では、身分の違いは出生によって決まっていた。社会の下位層に属している人は上位層にいる人との比較を免れるため、羨望や劣等感は感じない。そもそも比較するということがあり得ない。ところが社会的な制度としての身分差別がなくなると、建前上は誰もが上位層に所属することができるようになる。

かつては自分と同じような環境で生まれた人が、今では素晴らしい立場にある。であれば、似たような出自で、教育を受けてきた環境も似ている自分も、そのような立場に属していないのはおかしいのではないか。これが「公平性が阻害されている」という感覚に容易に結びつくことは、誰にでも想像できる。

差別や格差を感じるときというのは、そこに「異質性」があるからこそ生まれると考えがちだ。しかし実のところはそうではない。差別や格差というのは、全く逆に「同質性」が高いからこそ我々も知るような醜い形となり現れる。人種差別について深い洞察を残したモスコヴィッシは次のように指摘する。

人種差別は逆に同質性の問題だとわかる。私と深い共通性を持った者、私と同意すべきであり、私と信条を分け合うはずの者との間に見いだされる不和は、たとえ小さくとも耐えられない。その不一致は実際の度合いよりもずっと深刻なものとして現れる。差異を誇張し、私は裏切られたと感じ、激しい反発を起こす。

小坂井敏晶「社会心理学講義〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉」

小さな格差がもたらす大きなストレス

問題となるのは、その理由も定かではないような大きな差別ではない。江戸時代の身分差別制度や、現在のイギリスやインドに見られるような「クラス」により分け隔てられた人々たちが「不公平」により心身を蝕まれることはない。むしろ、同質性が前提ともなっている社会や組織において発生する「小さな格差」こそが、大きなストレスを生み出すのだ。

注記しておくに、歴史上におけるなんらかの身分差別制度といったものが望ましいということではない。そうした社会は、同質性が、建前上は前提となっている社会と比較して、ルサンチマンや妬みといった感情に搦めとられてしまう事態が少なかったのではないか、ということだ。

改めて、格差や差別に基づく妬みという感情は、社会や組織における同質性が高まるほどに、構成員を蝕んでいくことになる。19世紀前半に活躍したフランスの政治思想家であるアレクシ・ド・トクヴィルは、平等を理想として掲げる民主主義の台頭に際し、その矛盾を下記に示す内容にて鋭く指摘した。

不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである。

トクヴィル「アメリカのデモクラシー」

それでもあなたは劣っている

トクヴィルの指摘は、多くの人が求める「公正な組織」「公正な社会」の本質的な矛盾を突いている。こうした認識が成立した上で、なお、「公正」で「公平」であることを望み求めるべきであろうか。もし、社会や組織が公正で公平であると仮定した場合、その中で下層に位置づけられる人には、逃げ道がないことになる。

下層に位置づけられた人が、まさしく自分の才能や努力や容姿といった点で他人より劣っているとした場合、社会制度が公正で公平であるならば、劣等性を否定するということ、いわゆる自己防衛は成立しなくなる。多くの人が安易に求めがちな「究極の理想」と掲げる「公正で公平な評価」は、本当に望ましいものなのか。

もし仮に、それが成立したときに「それでもあなたは劣っているからこの評価である」とされる多数の人々は、どのようにして自己の防衛に努めたり、自身を肯定的に捉えることができるのか。そうした社会は本当に理想的なのか。「公正」「公平」を絶対善として奉る前に、多様な角度から捉えようとする姿勢が必要ではないだろうか。

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