マルセル・モースはポリネシアを広く踏査し、そこに住む現地人の経済活動が西欧的な「等価交換」ではなく「贈与」の感性によって駆動されていることを発見、それを西欧社会に対し紹介した。西欧にて、本格的に初めて贈与の問題を取り上げたのがこのモースで、ともすればなぜ「贈与」を問題として取り上げたのかを考察する。
経済的な価値があるのかないのか
現在を生きる我々が「贈与」と聞けば、贈られるものの正体は、なんらかの経済的な価値があるものや、あるいは大なり小なり有用性があるもの、を想像する。しかしモースによれば、ポリネシアの人々が「贈与」しているものは、まったくそういうものではないと紹介した。
例えば、ポリネシアではタオンガと呼ばれる宝物を、メラネシアではクラと呼ばれる貝殻や花で飾られた器物を贈り合っている。そして彼らは、このタオンガやクラを「贈与」するためだけに、荒波が寄せる海へカヌーを漕ぎだし、命がけで取得しつつ、そのために死ぬこともしばしばあったらしい。
そんなもののために、と多くの人が思うだろうが、逆の視点を持てば我々も同じだということをすぐに理解できる。彼らからすれば、例えば日本で生活をする人は「日本銀行券」と書かれたぺらぺらの紙を交換するために日々心身を衰弱させ、ときには人を殺しさえしてしまう。「命をかけてぺらぺらの紙を交換しているなんて」というわけだ。
贈与の三つの義務
モースによれば、ポリネシアの人々による「贈与」は、我々が同じ言葉から感じるニュアンスとは随分と異なる見解を示している。どこが違うのかというと「贈与は義務である」という点だ。彼らの生活を垣間見るなかで、モースによれば、彼らの「贈与」には次の三つの義務があった。
- 贈与する義務:贈らないことは礼儀に反し、面子は丸つぶれになる
- 受け取る義務:たとえ「ありがた迷惑」と思っても拒否してはいけない
- 返礼する義務:お返しは絶対に必要である
この三つの義務を所与のアルゴリズムとしてシステムに与えると、交換は永遠に続くことになる。つまりは、この三つの義務による交換活動が、我々の言葉でいう経済活動となり、その在り方を縮小させないため、あるいは拡大するための、彼らなりのルールでありシステムとなっている。
経済活動による価値と、その二つの枠組み
さて、今日の人による経済活動の価値を軽量する枠組みは大きく二つ存在する。一つ目は、ものごとの価値は「投入された労働量で決まる」と考える労働価値説。この労働価値説を打ち出したのは古典派経済学で、この考え方はマルクス経済学にも受け継がれ、思想体系の基盤となった。
二つ目が、ものごとの価値は「効用の大きさで決まる」と考える効用価値説。先の労働価値説を唱えた古典派経済学に対し、この効用価値説を唱えた経済学者たちは新古典派と整理される。効用とは、英語でいうところのユーティリティが該当する。アダム・スミスに影響を与えたジェレミー・ベンサムの功利主義は、英語でユーティリタリアニズムと呼ばれる。
効用と言うとなにか硬い印象を感じるが、使い勝手、と考えるとストンとくるものがある。クレイトン・クリステンセンは著書「ジョブ理論-なぜあの商品は売れなかったのか」の中で、「人々は商品を購入しているのではなく、なんらかの問題を解決するために商品を雇っている」と指摘しているが、これも効用価値説だと考えればわかりやすい。
贈与は枠組みに取り込まれていない
話を戻して、ものごとの価値を説明する枠組みは「労働価値説」と「効用価値説」の二つがあるが、この枠組みではモースの「贈与」をうまく説明することができない。経済学の限界はこういうところで、交換のもっとも根源的な形態である「贈与」を、きちんと取り込めていないということだ。
経済学において定番教科書であるマンキューやクルーグマンのミクロ経済学でも、贈与の問題については触れられていない。モースが問題としたのもまさにこの点、なぜ、わざわざ「贈与」を問題にしたのか。それは、近代以降のヨーロッパ社会が、贈与という慣習を失ってしまったが故に、経済システムから人間性が失われてしまった、と批判するためであった。
モースは、「贈与論」を通じて、贈与と給付の体系が人間社会の岩盤であることで、近代以降の貨幣経済が道徳的に歪んだものであること、を示した上で、貨幣経済から贈与経済への移行を提案するという、なんとも大胆なことを目論んでいた。結局、当然のようにも思えるが、モースの問題意識は未だに解決されていない。
労働価値説にせよ、効用価値説にせよ、ものごとの価値が適正に決まるということであれば、リーマンショックを例とする大規模な金融危機など起こるはずもない。ものごとの価値が、不当に高く見積もられる、あるいは逆に不当に低く見積もられることで、社会に様々な問題が刻々と起き続けている。
資本主義に代替する生き方の可能性について
ところで、モースの「贈与」が近代以前は交換の基本形態だったという指摘は、的を得ていない。モースが調査したのは南太平洋のごく少数の部族で、その調査結果をもとに「人類全体の起源」と断定的な結論を出すのは、学術として脇が甘い。ということで、考察のために「もし仮にそうだとして」という柔軟な思考で以て考察を重ねる。
モースの唱えた通り、「贈与」が交換の基本形態だとすれば、その仕組みが復古することでどのような可能性が見えてくるのか。現在、文明社会を生きるほとんどの人は、自分の能力を社会に提供し、その対価として報酬をもらうという、等価交換の構図で経済活動を行っている。その自覚があるにせよないにせよ、だ。
仕事はそういうもの、となんの疑いも持たずにいるわけだが、こうした構造が普遍性をもつようになったのは数千年続く人類史において、このたった100年くらいのことだ。資本主義とともに株式会社を代表とする富を生み出すプラットフォームが形成された結果、労働力の取引コストを社会全体で低め、それが多くの人にとって疑いようのない当たり前となった。
しかし、ネットがこれだけ普及し、能力とニーズを紐づける社会的コストがひと昔前と比べ劇的に下がった時代において、現在有している当たり前の感覚は、守り抜くべき価値のあるものであろうか。例えば、自身の能力や感性に希少性を感じてくれる人がいるとして、そうした人たちに値札もないままに「贈与」し、いくばくかのお礼をもらうことで生きていく。
例えば、自身にファンが100人いるとして、そのファンから自身が贈与した何かと交換するかたちで10000円をもらうことで、十分に生きていくことはできる。そして、そのような「贈与」と「感謝」に基づいた関係性は、なによりも健全で、充実感、自己効力感を与えてくれる。そう考えるととてもワクワクしてくる。

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