トマス・ホッブズが生きた17世紀末では「世界は神様が創造された」と考えるのが主流であった時代で、そうした考えから逸脱しようものなら異端扱いとされ火あぶりの刑に処される、ということが未だに実在していた。そうした時代背景がありながらも、ホッブズが唱えた本項は極めて革命的なものであった。その細部を紐解いていく。
人知の及ばない巨大な力
曙のまばたきのように、光を放ち始める。
口からは火炎が吹き出し
火の粉が飛び散る。
首には猛威が宿り
顔には威嚇がみなぎっている。
旧約聖書ヨブ記41節より
これは旧約聖書の「ヨブ記」にて描写された「リバイアサン」という名前の怪物である。日本人からすると、この文章からはゴジラを多くの人が想像しそうであるが、ホッブズがイメージしていたのも、まさに「人知の及ばない巨大な力」を秘めた何か、であったようだ。ホッブズは、世界というシステムのあり様を下記二つの前提において思考実験にかける。
- 人間の能力に大きな差はない
- 人が欲しがるものは希少で有限である
いかにもメカニカルな考え方だ。哲学史においてホッブズの少し後に登場するデカルトやスピノザなどにも共通する考え方で、「唯物論的世界観」「機械論的自然観」と表現する。精神性や情緒性を排除した、言わば時計仕掛けのようにメカニカルな世界観を指す。冒頭で記載した時代背景で、こうした考え方を持つということが、どれほど異端扱いされたのだろうか。
定義した社会の状態
ホッブズは、先に記した「世界というシステムのあり様」が示す二つの命題から、必然的に引き出される「社会の状態」を定義した。それは「万人の万人による戦い」というものであった。希少なものを奪い合うために人が戦い合う、現代語訳で言えば「ディストピア」こそが、世界の本質だと指摘した。そうした状態を、次のように具体的に記述している。
土地の耕作も、航海も行われず、回路輸入される物資の利用、便利な建物、多くの力を必要とするような物を運搬し移動する道具、地表面にかんする知識、時間の計算、技術、文学、社会、のいずれもない。そして何よりも悪いことに、絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い。
誰にとっても良い状態ではないことは明白だ。そこで「私はあなたの所有物には手を出さないと誓う。あなたも私の所有物に手を出さないと誓ってください」という考え方が出てくる。こうしたシステムの元で生きているはずである私たちですら、成り立つのか否かを錯覚しがちではあるが、社会を構成する全員でルールを定め、これを約束しよう、という考え方である。
犯した人を罰する権力が必要となる
「社会の構成員全員でルールを守ろう」とする考え方に対し、ホッブズはこれだけでは不十分だと説いた。「剣なき契約はただの言葉に過ぎず、身を守ってくれる力はまったくない」とし、「ルールを破ったときのペナルティがなければ、ルールを定めたところで意味はない」というのが、ホッブズの考え方だった。
これを解決に導くため、法を犯した人を罰するだけの権力を持つ権威を、中央に設置する必用がある。その権威が、社会の構成員と契約を結び、ルールを守らない者を厳しく取り締まることに、全員が合意する。人々の自由と安全を保障する唯一の方法は、個人の自由と安全をはく奪できる権力を有する巨大な権威を置き、これに社会を統制させることだ。
こうした主張のもとで、「巨大な権威」を、その巨大さ、そして不気味さになぞらえ「リバイアサン」と名付けた。ホッブズのアウトプットは「安全な社会をつくるためには国家権力が必要だ」と言い換えることができる。しかし、この主張だけを知識として学んだところで、大きな知的果実は得られない。
主張に至る思考のプロセス
まとまりのない組織に対し、権力を集中させ安定を取り戻そうと画策する人にとって、「安全な社会をつくるためには大きな権力を持つ権威が必要だ」というホッブズの主張は、時として強い説得材料になり得ると考えてしまうかもしれない。しかし、これは本来のホッブズの意思ではないだろうし、考察の援用という点でも誤っている。
ホッブズは、なぜこのような主張に至ったのか。今一度、ホッブズが生きた時代の背景と、それによる思考のプロセスを辿り、考察してみる。その思考プロセスとはどのようなものであったのか。いみじくも、ホッブズ自身の指摘により明らかにされている。極めて慎重に、次のように指摘している。
人々が外敵の侵入から、あるいは相互の権利侵害から身を守り、そしてみずからの労働と大地から得る収穫によって、自分自身を養い、快適な生活を送ってゆくことを可能にするのは、この公共的な権力である。この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意思を多数決によって一つの意思に結集できるよう、一個人あるいは合議体に、かれらの持つあらゆる力と強さとを譲り渡してしまうことである。
独裁による秩序か自由ある無秩序か
「国家が必要だ」と無条件に主張しているのではない。ホッブズは、いくつかの人間や社会に関する性質を仮定すると、必然的にある結論が得られる、と説いているだけである。この主張は、私たちに一つの問いを投げかける。その問いとは、「巨大権力に支配された秩序ある社会」と「自由だが無秩序な社会」の、どちらが人々にとって望ましいのか、という問題である。
この問題に対するホッブズ自身の答えは前者であった。もう一度、ホッブズが生きた時代とその背景に、目を向けてみよう。忘れてはならない、血で血を洗うピューリタン革命の真っ只中で、その生涯を閉じたのが他ならぬホッブズだ。神から国を統治する権利を与えられたとされていた国王は処刑され、それまで誰もが経験したことのない騒乱状態に陥った。
ホッブズが個人的に親しくしていた人の多くも、騒乱の中で私たちが想像もできないような過酷な人生を送ったであろう。一時的な平和は、軍事的な独裁によりかろうじて保たれていたひと時であった。そうした時代に、ホッブズが「自由ある無秩序」よりも「独裁による秩序」を望み、そして説いたのも、無理のないことかもしれない。

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