私たちは通常、外乱や圧力によってすぐに壊れたり、調子が悪くなったりする性質のことを、「脆弱=脆い=Fragile」と形容する。これに対置される概念は何か。一般的には「頑健=Robust」ということになる。しかし、本当にそうなのか、というのがナシーム・ニコラス・タレブの思考の出発点であった。
反脆弱性=Anti-Fragile
「外乱や圧力の高まりによってパフォーマンスが低下する性質」というのが「脆弱性」の定義だとすれば、対置されるべきなのは「外乱や圧力の高まりによって、かえってパフォーマンスが高まるような性質」ではないのか。このことをタレブは「反脆弱性=Anti-Fragile」と名付け、次のように記述した。
反脆さは耐久力や頑健さを超越する。耐久力のあるものは、衝撃に耐え、現状をキープする。だが、反脆いものは衝撃を糧にする。この性質は、進化、文化、思想、革命、政治体制、技術的イノベーション、文化的・経済的な繁栄、企業の生存、美味しいレシピ(コニャックを一滴だけ垂らしたチキンスープやタルタルステーキなど)、都市の隆盛、社会、法体系、赤道の熱帯雨林、菌耐性などなど、時とともに変化しつづけてきたどんなものにも当てはまる。地球上の種のひとつとしての人間の存在でさえ同じだ。そして、人間の身体のような生きているもの、有機的なもの、複合的なものと、机の上のホッチキスのような無機的なものとの違いは、反脆さがあるかどうかなのだ。
タレブは原書においてこれを「Anti-Fragile」という新語の形容詞で表現した。今日、私たちが一般的に用いている言葉に、そのままそっくり該当する、あるいは性質を表わす言葉は存在しない。英語にも日本語にもこれを意味する言葉がなかった、ということは、これが概念として新しいものである、ということを示唆している。
この性質はなかなかイメージしにくいかもしれない。例えば、いわゆる炎上マーケティングはAnti-Fragileに該当すると言える。炎上そのものは主体者にとってストレスとなるものの、そのストレスによってかえって集客や集金のパフォーマンスが向上するのであれば、これは「反脆弱な特性」と捉えることができる。
なぜ反脆弱性が重要なのか
この「反脆弱性」という概念をタレブは非常に重要視する。それは、今を生きる私たちが、非常に予測の難しい時代を生きているからだ。リスクをあらかじめ予測できれば、そのリスクに対応できるような頑強なシステムを組むことで対策ができる。津波に対応するためのスーパー堤防のようなものだ。ではそれは可能なのか?タレブの指摘はこうだ。
システムに害をもたらす事象の発生を予測するよりも、システムが脆いかどうかを見分けるほうがずっとラクだ。脆さは測れるが、リスクは測れない(リスクを測れるのは、カジノの世界や、リスクの専門家を自称する連中の頭の中だけの話だ)。私は重大で希少な事象のリスクを計算したり、その発生を予測したりすることはできないという事実を、「ブラック・スワン問題」と呼んでいる。脆さを測るのは、この問題の解決策となる。変動性による被害の受けやすさは測定できるし、その被害をもたらす事象を予測するよりはよっぽど簡単だ。本書では、現代の予測、予知、リスク管理のアプローチを根底からひっくり返したいと思っている。
さて、「一見、脆弱だが実は反脆弱なシステム」と「一見、頑健だが実は脆弱なシステム」の対比は、私たちが生きる社会の至るところで見ることができる。「手に職を持った工務店の大工」と「大手ゼネコンの総合職」や、「アメ横商店街」と「大型百貨店」、「ママチャリ」と「ベンツのSクラス」などだ。
1万円のママチャリと1000万円のベンツを比較して、「ベンツの方が脆弱である」と指摘でもすれば、ほとんどの人は訝しく捉えるだろう。それは、その印象があくまで「システムが正常に動いている状態」を前提にしているからだ。大地震発生後の崩壊した道路においては、そこを交通できない車よりも、乗っては持ち運びのできるママチャリの方が、遥かに機能する。
組織やキャリアにおいてはどうか
タレブが考える「反脆弱性」を組織論やキャリア論に当てはめて考えると、どのような示唆が得られるだろうか。まず組織論について言えば、意図的な失敗を織り込むのが重要である、ということになる。ストレスの少ない状況になればなるほど、システムは脆弱になってしまう。
常に一定のストレス、ストレスがかかる先が崩壊しない程度のストレス、が発生することが重要だ。それはなぜか。そうしたストレス、いわば失敗は、学習を促し組織の創造性を高めることに繋がるからだ。なんのストレスもなく、あまりにも脆弱なままで放置された組織は、早かれ遅かれ衰退や崩壊を自ら招く。
同様のことがキャリア論の世界においても言える。「頑健なキャリア」とは例えば「大手メガバンクや総合商社など、社内は当然社外からの評価すらも確立している大きな組織」に加わり、「そこでつつがなく大きな失敗をすることもなく、順調に出世していく」ことだと考えられる。
そのようなキャリアは、私たちが思い描くほど「頑健」だろうか。組織論の専門家に言わせれば、銀行の仕事というのはモジュール化が進んでおり、手続きのプロトコルが非常に洗練されているため、最も機械に代替させやすい。大企業であっても、人員削減のニュースは物心がついた頃から世間を賑わせていたように記憶している。
大きな組織に勤めて、その中でずっと過ごすということになると、そうした人のスキルや知識といった人的資本、人脈や評判、信用といった社会資本のほとんどは、組織内に蓄積されることになる。ところがこうした資本は、その組織を離れてしまうと大きく目減りしてしまう。
いかに反脆弱性を盛り込むか
つまり、人を一つの企業として捉えた場合、この人のバランスシートは、組織から離れてしまうと極めて「脆弱」になってしまう、ということだ。蓄積してきた資本により、同様の資本を重要とする別の組織であれば、もしかしたら居場所を見つけることが出来るかもしれない。しかし、そうした「生き方」が、予測の難しい社会において、どれだけ通用し続けるだろうか。
重要になってくるのは、多くの失敗をできるだけ若いときに重ねること。いろいろな組織やコミュニティに出入りし、人的資本と社会資本を分散した場所に形成すること、といった要件が挙げられる。一個一個の組織やコミュニティは脆弱かもしれない。そうした組織やコミュニティの存続よりも、そこに所属する人の、人的資本や社会資本の残存性こそが重要ではないか。
所属する組織やコミュニティが消滅してしまったとしても、所属していた人たちのあいだで信用が形成されていれば、社会資本は必ずしも大きく目減りすることなく、アメーバ状に分散されはするが維持もされる。この考察をさらに推し進めれば、タレブの指摘する「反脆弱性」というコンセプトが、こうしたことも示してくれる。
それは、私たちが考える「成功モデル」「成功イメージ」といったものの、書き換えを迫るものだということへの気付きだ。私たちは、自分のキャリアだけではなく所属する組織すらも、なるべく「頑強」なものにしよう、という思考を持つ。そしてこれが果たされたものを「成功モデル」とする思想を抱くつもりもなく抱いている。
しかし、これだけ予測が難しく不確実性が高まりすぎた社会では、一見すると「頑強」に見えてきたシステムが、実は大変脆弱であるかもしれない、ということが明るみに出つつあることも事実だ。自分のキャリアにしても所属する組織にしても、いかに「反脆弱性」を盛り込むかという論点は、今後非常に重要となるのではないか。

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