「モノ」があって「コトバ」がある。私たちは通常、「モノ」という実在が先にきて、それに対し「コトバ」が後追いで付けられたように感じている。しかし、本当にそうなのであれば、モノの体系と言語の体系が文化圏によって異なることの説明ができない。フェルディナンド・ソシュールの指摘を紐解いて考察してみる。
フランス語の「羊(mouton)」は英語の「羊(sheep)」と語義はだいたい同じである。しかしこの語の持っている意味の幅は違う。理由の一つは、調理して食卓に与された羊肉のことを英語では「羊肉(mutton)」と言ってsheepとは言わないからである。sheepとmoutonは意味の幅が違う。もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし現実はそうではない。
言葉とその概念の範囲は文化圏により異なる
日本人に馴染みの薄い「羊」が例に挙げられているためわかりにくいが、重要なのは「意味の幅が違う」という指摘だ。ある言葉が概念として指し示す範囲が、文化圏によって違う、ということをソシュールは言っている。日本人にもわかりやすい一例として、「蛾」と「蝶」を例に考察する。
「蛾」も「蝶」も、共に我々日本人には馴染みのある言葉である。この二つの言葉は、「蛾」と「蝶」という二種類の虫がもともと存在し名付けられたと考えがちであるが、ソシュールはそれを間違いだと指摘する。なぜなら、フランス語には「蛾」という言葉も「蝶」という言葉も存在せず、二つを包含する「Papillon(パピヨン)」という言葉のみが存在するからだ。
フランスでは、私たちが「蛾」と「蝶」として使い分けている二つの概念が、一つの範囲のもの、つまり「より大きな幅」を示す言葉として「Papillon」で整理されている、ということだ。誤解しないためにも記載しておくが、蛾に該当する「Papillon」という言葉はあるが、蝶に該当する言葉はない、といったことではない。
日本人は「蛾」と「蝶」という概念を別の二つのものとして使い分けている。フランスで「蛾」に該当するのが「Papillon」で「蝶」に該当する言葉がただ単にないだけだとすれば、フランスも日本と同様に「蛾」と「蝶」を別の概念で整理していることになる。しかし、そういうことではない。
フランスでは「蛾」という概念も「蝶」という概念もなく、二つを同じ集合として捉える「Papillon」というまったく別の概念を用いる、ということだ。逆に言えば、厳密な意味でもってフランス語の「Papillon」に対応する概念は、日本語には存在しない、ということになる。
概念を示す言葉と、言葉により示される概念
あらゆる場合において、私たちが見出すのは、概念はあらかじめ与えられているのではなく、語のもつ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である。概念は指差的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。より厳密に言えば、ある概念の特性とは、「他の概念ではない」ということに他ならないのである。
ソシュールは、概念を示す言葉をシニフィアン、言葉によって示される概念そのものをシニフィエと名付けた。先述した例では、日本語で「蛾」と「蝶」という二つのシニフィアンを用い、二つのシニフィエを示している。一方でフランスでは、「Papillon」というシニフィアンを用い、日本語の「蛾」でも「蝶」でもない、二つが包含されたシニフィエを示している。
この、シニフィアンとシニフィエの体系は言語により大きく異なる。日本語では「水」と「湯」は別のシニフィアンであるが、英語では「Water」というシニフィアンとなり、あるいは「恋」と「愛」も別のシニフィアンであるが、英語だと「Love」というシニフィアンのみ、となる。こうしたソシュールの指摘が、なぜ重要なのか。二つの要素が挙げられる。
まず一つ目は、私たちの世界認識は、自分たちが依拠している言語システムによって大きく規定されている、ということを示唆するからである。私たちは言葉を用いて思考する。しかし、その言葉自体が、すでに何らかの前提によっているとすればどうか。言葉を用いて自由に思考しているつもりが、その言葉が依拠している枠組みに思考もまた依拠する、ということになる。
自由意志の真なる部分
私たちは本当の意味で自由に思考することができない。その思考は、私たちが依拠している何らかの構造によって大きな影響を不可避的に受けてしまう。こうした枠組みが、構造主義哲学の基本的な立場である。ソシュール自身は言語学者であったが、歴史上においては構造主義哲学の始祖と呼ばれるのはそのためだ。
「私たちは私たちが依拠している構造によって考えることしかできない」ということを、別の角度から指摘したのがマルクス、ニーチェ、フロイトだ。私たちの思考が「社会的な立場」「社会的な道徳」「自分の無意識」などにより不可避的に歪められてしまうことを指摘し、これらの考察が、やがてレヴィ・ストロースに代表される構造主義哲学へと収れんしていく。
人類史における大きな疑問と哲学は、「世界はどのように成り立っているのか」という「Whatの問い」から始まった。以来、デカルトやスピノザらが活躍した17世紀ごろまでの哲学は、事実に基づいて明晰に思考を住み重ねれば「真実」に到達することができる、と考えていたことになるが、「本当にそうなのか」という疑問をソシュールは投げかける。
古代ギリシアから連綿と続いてきた、理知的な考察により真実に到達する、という無邪気な「理知原理主義」とも言うべき考えた方に対し、哲学とはまったく異なる側面から、「シニフィアンとシニフィエ」という指摘でもって決定的なダメ出しをした。これがソシュールの指摘が重要だとされる一つ目の理由である。
それでも世界を把握しようとするなら
ソシュールの指摘がなぜ重要なのか。二つ目の理由は、語彙の豊かさが世界を分析的に把握する力量に直結する、ということを示唆するからである。異なる言語ではなく同じ日本語を用いる集団の中で、より多くのシニフィアンを有する人とより少ないシニフィアンしか有していない人を比べてみた場合、どうなるだろうか。
ソシュールが指摘するように、ある概念の特性が「他の概念ではない」ということであれば、より多くのシニフィアンを有する人は、それだけ世界を細かく切って把握することが可能となる。細かく切るというのは、つまりは分析ということだ。そして、あるシニフィアンを有する、ということは、あるシニフィエを把握することに繋がる。
概念という言葉しか持たない人は、概念という言葉の中に含まれる「シニフィアン」と「シニフィエ」を分けて認識することができない。「シニフィアン」という語彙を持っているからこそ、ある概念が示されたとき、それが「シニフィアン」なのか「シニフィエ」なのかを、判別する機構が働くことになる。
これはそのまま、世界をより細かいメッシュで分析的に把握するための、能力の高低に繋がる。本データベース上でまとめている内容がそれに該当する。日常生活を送る上では全く役に立たない要素が、目の前で起きている事象をより正確に把握するための洞察を与えてくれる、という事実概算経験値として、確かに自身の中に積もっている。
なぜ、概念が洞察を与えてくれるのか。それは新しい「世界を把握する切り口」を与えてくれるからである。私たちは、自分が依拠している言語の枠組みによってしか、世界を把握することはできない。それでもなお、より精密に世界を把握することを試みるのであれば、より多くのシニフィアンを組み合わせることで、精密にシニフィエを描き出す努力が必要となる。

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