哲学を学ぶ意味-3.課題設定能力

イノベーションの停滞が叫ばれてしばらく経つが、その原因は創造性やアイディアの欠如ではなく、解決すべき課題がわからないからではないだろうか。

課題を解決する=イノベーションが起きる、とまでは言わないまでも、イノベーションを起こす=何らかの課題を解決することで起こる可能性、は充分にあると捉えることはできる。

では、ボトルネックとなっている「課題はいったいなにか」を突き止めるためには、「課題設定能力」が必要となってくる。どうすればこの能力を高められるのか。

常識を相対化するための教養

鍵は教養にある。これまでに慣れ親しんだ現実から課題をくみ取るためには、「常識を相対化する」ことが不可欠である。

例えば、日本で生まれ育ち日本の風俗習慣や生活文化しか知らない人が、日々の常識に疑問を抱くのは中々に難しいことである一方で、日本以外の国で生まれ育った人にとってみれば、疑問を抱くのは容易であり、むしろ疑問だらけな場面が多々ある、といったケースも想像にたやすい。

地理的な空間、歴史的な時間の広がりを有する人であればあるほど、この疑問の質は高まり数は多くなる、イコール目の前の状況を相対化できるようになる、ということである。

当たり前だったことが当たり前ではなくなる

当たり前だったことが当たり前ではなくなる、という側面を持っているのがイノベーションだとすると、つまりはそれまでの常識が疑われることで、初めてイノベーションの種が生み出されるということになる。

常識を疑うというメッセージの浅はかさ

すべての常識を疑ってかかることの邪悪さは理解できる。逆説として、すべての常識を疑ってしまうと生活を含めた色々なものが破綻してしまうことも想像にたやすい。

一方で、イノベーションのためには常識を疑ってかかる必要もあり、大なり小なりのパラドックスが生じる。

ではこのパラドックスを解く鍵はなにか。それは「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める見方を身に着ける、ということである。この見方を与えてくれるのが、空間軸・時間軸での知識の広がり=教養、ということになる。

間違っても、「すべてに対し疑ってかかる態度」を身に着けるのが重要ではない、ということだ。

今ここだけで通用している常識

目の前の現実と自身の知識を比較し、より普遍性の低い常識であれば、疑ってかかる価値のある常識、だと捉えることは有用である。

それが常識だと捉えてしまい疑問もいだかないのか、知識があるからこそなんらかの目線で比較相対化できるのか。教養はそれらを映し出すレンズとなり得るのだ。

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